ただ、十数年前の私は、親から金をむしり取って映画を観にゆく電車の中で、自分と同い年くらいの大学生風の人たちやサラリーマンなどに囲まれ、こういうちゃんとした生き方をしないといけないんだろうな、と思う裏側で、自分の読書歴を思い返し、この電車に乗っている人間の中で「源氏物語」の原文を二回通読したのはたぶん自分だけだろうな、と、不遜で、無恥で、無礼で、しかしこの世で自分にとってだけは多少の意味がないわけでもないことを思い巡らせて、卑屈に安心していた、ということを、最後に書いておく。

朝日新聞2008年6月4日、18面 田中慎弥「夢も希望もないから」

これで一文かや。なげー。

田中慎弥は1972年生まれの小説家(山口県下関市出身)。ここ数年で、第37回新潮新人賞受賞、第136回、第138回芥川賞候補、第34回川端康成文学賞、第21回三島由紀夫賞とめざましい活躍ぶりだ。

「高校を卒業指定校して以降、就職どころかアルバイトさえしたことがなく、大学、専門学校、予備校などへ通いもせず、つまり何もしていないと呼ぶ以外にない状態が長く続いた」(これが書き出しの文)とあるけれど、そんなでも本が書けてしまうんだ? いろいろ経験して芸の肥やしという通説に逆らっての、想像力だけで作り上げてしまった作品(かどうかは知らないが)、読んでみたくなった。

080611-50