2008-12-01から1ヶ月間の記事一覧

日本語が主語や目的語がなくてもなりたつのは、日本語が具体的な「対話場面」への依存度が高く、いつでも「聞き手」の存在を想定しており、「話し手」の発言や文が「聞き手」によって補完され、完成されることをあらかじめ期待しているからであろう。

本(講談社)2008年12月号、p.29 村岡晋一「対話の哲学」ドイツ系ユダヤ人の思想家がどうのこうの、と始まったので飛ばし読みしていたら、後半急に身近な話になって、これがとても面白い。 ただし、最近日本で語られるようになった「対話の勧め」には注意し…

驚きの連続でした。とくに、鳥の鳴き声に予期せぬ言葉が多かった。ウグイスが「月日星」の声を上げていたり、ヌエが「死」と不気味な声をあげていたり、フクロウが「糊すりおけ」と鳴いて明日の天気を占っていたり。滑稽小説『西洋道中膝栗毛』の「滑稽稿と鶏が啼く」という自己宣伝には、思わずニヤリ。かと思うと、親鳥が「ウトウ」と鳴き声をあげて子供を呼ぶと、子鳥が「ヤスカタ」と鳴き声をあげて答えるという記述まである。「うそ! 信じられない。確かめてみなくっちゃ」。こうして、鳥の声を写す言葉の歴史にのめり込んでいきました。

本(講談社)2008年12月号、p.26 山口仲美「「滑稽稿」と鶏が啼く」 (注:「月日星」は「つきひほし」、「死」は「シー」、「滑稽稿と鶏が啼く」には「コツケイコウ」と「とり」のルビ。「声を上げて」の「上げて」が最初だけ漢字なのは、私の誤植にあらず…

この小説で、僕は初めて書き手として社会の傍観者である立場を捨てたように思う。小説を書きながら、僕は登場人物たちとともに救いに似た何かをこの社会の中に、あるいは自分自身の中に、探そうとしていた。

本(講談社)2008年12月号、p.11 本多孝好「半ば辺りで」そうか。小説家というのは、そういうことだって出来ちゃうんだよなぁ。うらやましがってもしょうがないんだけど。「この小説」というのは、『チェーン・ポイズン』。「講談社創業100周年記念出版「書…

こんなに会っていないのに

つながっている。 年賀状ってすごい。「年賀状は贈り物だと思う。」シリーズ?のコピーの1つだけど、他のもああそうだよね、と素直にうなずけるものが並んだ。 コピーは先週、新宿の地下街で見かけた(写真)のだが、CM(http://www.yubin-nenga.jp/cm/honpe…

情報が何もないところと情報が洪水のようにあふれているところって同じようにたったひとりの気分になれるんです。

メトロミニッツ(スターツ出版)1月号、p.47 藤原新也「撮りながら話そう コスモスの花咲くころの郵便配達」 彼女の書いた住所に彼女はいない。 だけどいま僕は彼女の心の真っ只中にいる。 そんな気がした。 081220-228

「プロデュース」は俺がみんなを「管理」できているという唯一の証だ。誰もその枠を出ない、俺の創ったものの中にしっかりと収まっているということ。そして同時に今や「プロデュース」は俺の存在価値そのものでもある。自分が存在しているという証、意味、価値。それを失うなんて。

白岩玄『野ブタ。をプロデュース』(河出書房新社、2004-2005年、p.171)高校生の時からこんなふうに世界を見ていたら……たいへんでしょうねぇ。だから主人公は、プロデュースはうまくいっても、自分の居場所を失うんだろうけど。え、でもまた自分をプロデュ…

過去、コソボが独立国として機能していた歴史は無く、また民族自決という観点から見ても、そこには矛盾がある。クルドやチベットの例を出すまでもなく、国を持たぬ民が独立を希求することを民族自決と定義するならば、コソボの場合は隣にアルバニアという「本国」がすでに存在している。今年春、州都プリティシュナの人々に、貴方は何人か? と手当たりしだいに聞いたら全員が「アルバニア人」と答えた。なるほど文字の表記や行政参加の民族配置もセルビア人のために配慮はされているが、有機的に機能はしていない。

青春と読書(集英社)2008年12月号、p.63 木村元彦「ノーベル平和賞とはなにか? ――マルッティ・アハティサーリ受賞によせて」「日本ではほとんど報道されなかった」というコソボにおける力関係の反転。こういう反転は、いとも簡単に起きる。 同一民族による…

写真は、眼の前にあるものに感応しなければ成立しない行為である。ネガティブな波動を感じたりしたら、いい写真にはならない。つまり眼の前にあるものを受容することが絶対条件なのだ。世界に対して自分を開き、つねにポジティブな態度でむかっていくこと、それが写真の原則であり、思想である。

青春と読書(集英社)2008年12月号、カラー口絵 大竹昭子「「写真家」を名乗る人」石川直樹『最後の冒険家』の紹介(宣伝)文。「受容することが絶対条件」? 写真の原則も思想も知らないで写真を撮っている私って……。081217-225

既製服が必要なら小説を読め。手作りの服が必要なら歴史書を読め。

青春と読書(集英社)2008年12月号、p.21 遅塚忠躬「ミラボーとロベスピエール」ここだけ読むと逆のような気がするのだが、この前に、 それでは、真実を描く小説家の方が、事実にこだわる歴史家よりも上位にあるのだろうか。いや、そうではない。小説家は、…

それではまた、次の小説で会いましょう。

島本理生『一千一秒の日々』(マガジンハウス、2005年、p.219)あらら、あとがきでこんなこと言われちゃったよ。「なんとなくほっと暖かい気持ちになってもらえたら」とも書いてあるが、息苦しくなるところもあったのだけど。友達繋がりの登場人物の中に自分…

「そろそろ帰ったほうがいいんじゃないか」

「私と手をつないで図書室の中を歩いてくれませんか」 二人の台詞がほぼ同時に重なった。 島本理生『一千一秒の日々』(マガジンハウス、2005年、p.213)言葉が重なってしまうことはよくある。けど、ぶつかった途端、そこで口を噤んでしまうと思うのだ。だか…

いざ始めると、書けなかった。仕事が進まないわけではない。それどころか、いつも予定の枚数を超えてしまう。筆が勝手に走る、書くのが楽だと、そういう幸せな話ではない。だから、しんどくて、しんどくて、もうやめたいと思うほどなのだ。せめて手抜きくらいはしたい。でなくとも、この密度で書き続けたら、いつ終わるとも知れやしない。ああ、このへんで妥協しよう。これじゃあ心身ともに、おかしくなる。ぶつぶつと零しながら、気分としては、とうに逃げ腰になっているのに、それでもやめることができないのだ。

青春と読書(集英社)2008年12月号、p.6 佐藤賢一「四十歳の革命」『小説フランス革命』執筆時の話。こういう人が作家になる(なれる)んだよね。すごい。081213-221

神は、空の高みにいるのでもない。人間の心の中にでもない。神がいるのは、今あなたが面と向かって相対しているあらゆる人の中だ、という神学的解釈は、私の心を捉えて放さなかった。

小説家としての私は、あらゆる人の中に神がいる、ということを証明できなければならない。殺人鬼とか、鬼畜とか呼ばれる人の中にも神がいる、ということを、実感的に描けねばならない。 青春と読書(集英社)2008年12月号、p.3 曽野綾子「墨絵の光景」私には…

西部劇小説は題名だけ見ればそれとわかる、という発見をしたのを、そのときから半世紀が経過しているにもかかわらず、いまでも僕は記憶している。積み上げてあるペイパーバックのタイトル背文字を上から順に読んでいき、これは西部劇だと思ったら、それを列から抜き出してみる。ほぼ間違いなくそれは西部劇小説であり、表紙絵を鑑賞したのち、西部劇だけを積んでおく列に加えていく。単なる読書とは、内容も方向も明らかに少しだけ違う言葉体験を、十歳前後の僕は楽しんでいたようだ。

図書(岩波書店)2008年11月号、p.33 片岡義男「散歩して迷子になる 8 良き刺激は大いにかさばる」読書以前とはいえ、これは相当うらやましい言葉体験だ。081211-219

つまりぼくも春香もどちらも同じくらいのちっぽけな過去しか持っていないのだ。どこもでっぱってなくてどこもへこんでいない、とりかえたってかまわないくらいの月並みな十九年間。それなのに、そのちっぽけな記憶の山をふくらませて掘り起こして、勝手に意味までつけ加えて、手痛く傷ついたりとんでもない影響をおよぼされたふりをしている。ふりをしていることにも気づかずに、そのちっぽけな過去に取り囲まれてその中で呼吸しようとしている。

角田光代『カップリング・ノー・チューニング』(河出書房新社、1997年、p.143)人生ってそんなものかと思っていましたが……。10年前なんで「十円玉が次々と飲みこまれてゆく」公衆電話が最後の場面。「ぼく」は10年経った今、何してんのかな。知りたいという…

そんなわけで私は、わー暗譜だ、すごいね、という価値観には賛同したくない。暗譜することよりも正しく楽譜を読むことの方が、ずっと重要だと思うからである。往年の大指揮者ハンス・クナッパーツブッシュは、なぜ暗譜で指揮なさらないのですか、という問いに、「オレは楽譜が読めるからね」と答えたというが、それは単なる冗談ではないであろう。楽譜を読むことは、つねに立ち返るべき、音楽の基本である。

本(講談社)2008年11月号、p.34 礒山雅「暗譜考」ホントにそうなのだ。ピアノで小学生唱歌をたどたどしく弾いている身で、国立音楽大学の教授に、お説ごもっともなんて言える立場じゃないのは百も承知なのだが、暗譜してピアノで何曲か弾けたからって、嬉し…

翻訳のあるべき姿というのは、盗んでもいけないし、貢いでもいけない。つまり、削ってもいけなければ、付け足してもいけない。できるだけ、秤にかけた時、原文と訳文は同じ重さを示さなければならない。だが現実には、翻訳によって情報量は増えてしまう。もちろん、この現象は、翻訳家の気前のよさから起きるものではない。訳者は、原文を前にして、予期しない広がりや奥深さを感じ、それに見合う内容を訳文で補おうとするのである。「原文を前にして」と書いたが、それは文章そのものではなく、原語への思い入れであることが多い。たった一文字の助

(注:「原語」の「語」に傍点ルビ) 図書(岩波書店)2008年11月号、p.18 中村亮二「『手癖の悪い翻訳家』」ちなみに『手癖の悪い翻訳家』というのは、ハンガリーの作家コスタラーニの短編小説の題名らしいのだが、コスタラーニ、検索にひっかかってくれな…

テレビの世界は虚像というが、ここでみられるのは本当だ。本当に彼らはそこにいて、喋っている。

(注:「本当だ」に傍点ルビ) 本(講談社)2008年11月号、p.26 長嶋有「愛しのジャパネット」「「ジャパネットたかた・テレビショッピング」をみている。ほとんど毎晩みている。」で始まる文章からの引用。ほぼ生放送ではないのに、一発撮りでテレビ誕生期…

それに、ある村が戦場になり、双方の軍がその村を挟んで、にらみ合いになる。黙っていると、両軍から税(年貢・夫役)を二重取りされる。こういう事態はよく起きていたらしく、中世の村では、それを「二重成」といって、ひどく嫌った。そこに、新たに「半手」という習俗が育っていた。双方の軍に税を半分ずつ納め、現代の板門店のような厳しい境界を設けず、村人の出入りは自由、というのが習わしであった。そんな両属の村が、戦国の世には、至るところにあったらしい。戦国の大名たちの合戦は、領土紛争ではあったが、半手といのは、境界をアバウト

(注:「夫役」には「ぶやく」、「二重成」には「ふたえなし」、「半手」には「はんて」のルビ) 本(講談社)2008年11月号、p.25 藤木久志「村に戦争が来た」「村に戦争が来た」ら、村人はどうしてたかという話の、ほんの一部(要約力がないんで、だからっ…

「ジュラシック・パークはつくってはいけない。それは原爆をつくってはいけないのと同じだ」

朝日新聞2008年12月3日、27面 故 M・クライトン氏 自然への畏敬 最後まで(署名記事:都築和人)93年6月にマイクル・クライトンにインタビューした時の言葉。あれ、朝日新聞はマイ「ケ」ル・クライトンで、訃報記事を出していたんじゃ(確かめたかったが、も…

芸能人の著書にはゴーストライターがつきものだが、本書はすべて東貴博本人の手によって書かれた作品だという。たしかにこの素直でなんの計算もない文章は、プロのライターでは逆になし得ないものだろう。

星星峡(幻冬舎)2008年11月号、p.103 西上心太「衒いなく描き尽くされる名コメディアンとその息子の絆」東貴博の『ニセ坊ちゃん』評。計算もなく文が書けるのか、とチャチを入れたくなるが(推敲と計算は違うのかな)、それは読んでからですね。081204-219

一〇歳の時好きだったことは、今も好き。

だから娘たちにも、一〇歳になるまでに たくさんの「興味の芽」を植えておきたい。 最後は好きなことが、自分を助けてくれる。 行正り香『やさしさグルグル』(文化出版局、2008年、p.41)最近は「世界は悪意に満ちている」と、斜めに構えてばっかりの私だか…

そりゃもちろん、それなりに衝撃を受ける映画には出逢いつづけているし、時には吃驚もするし、そういう映画に出逢えれば喜びもひとしおだし、興奮だってするけれど、それでも、とりあえず、座席からはすんなり立ち上がれる。

asta*(ポプラ社)2008年11月号、p.74 大島真寿美「極私的電影随想 3 記憶の鍵」そんなことがあるわけないんで、とじいさんになった私は思わず一蹴してしまったのであるが、うんにゃ、そういや、若い時分にゃ3時間近い映画(昔は長尺もんもザラだった)を続…

私は後に彼女に象徴される当時の進歩的日本人の思考方法の欠陥について「鳥目の日本人」という論文の中で批判したが、「樺美智子は自分で自分を踏み殺した」としかいいようないと記した私の表現を、出版社はこれだけは削ってくれと泣き込んで来、ならば掲載は取りやめても結構と伝えたら、発刊された雑誌には無断でその部分が削除されていた。

江藤淳『妻と私・幼年時代』(文春文庫、2001年、p.189)に収録されている、石原慎太郎『さらば、友よ、江藤よ!』から樺美智子ちゅーたら当時はジャンヌ・ダルクみたいな存在だったから(ってよく知らないのだけど)、出版社も譲れなかったのかもしれない…