日本語が主語や目的語がなくてもなりたつのは、日本語が具体的な「対話場面」への依存度が高く、いつでも「聞き手」の存在を想定しており、「話し手」の発言や文が「聞き手」によって補完され、完成されることをあらかじめ期待しているからであろう。

本(講談社)2008年12月号、p.29 村岡晋一「対話の哲学」

ドイツ系ユダヤ人の思想家がどうのこうの、と始まったので飛ばし読みしていたら、後半急に身近な話になって、これがとても面白い。

ただし、最近日本で語られるようになった「対話の勧め」には注意したい。日本も国際社会の一員として外国の人びとと積極的に対話することを学ばなければならないというのはよいとしても、そのあとに、だからこそわれわれ日本人はYESとNOをはっきり言えるようにならなければならないとされる。ここで前提されているのは、対話とはたがいの言い分を主張することだという考えである。しかし、それでは対話の勧めではなく、モノローグの勧めにすぎない。むしろ「対話の哲学」が教えているのは、対話とはまずもって「聞くこと」であり、対話の新たな可能性を開きうるという「聞くこと」の力を信じることなのである。

Amazonに行ったら、下の本の紹介欄に「“わたし”は世界の中心ではない。“あなた”から語りかけられるときに初めて“わたし”が生まれるのだ」という文を見つけた。なるほどね(とうなずいてはみたけれど、哲学書に手は伸びないのな)。

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