翻訳のあるべき姿というのは、盗んでもいけないし、貢いでもいけない。つまり、削ってもいけなければ、付け足してもいけない。できるだけ、秤にかけた時、原文と訳文は同じ重さを示さなければならない。だが現実には、翻訳によって情報量は増えてしまう。もちろん、この現象は、翻訳家の気前のよさから起きるものではない。訳者は、原文を前にして、予期しない広がりや奥深さを感じ、それに見合う内容を訳文で補おうとするのである。「原文を前にして」と書いたが、それは文章そのものではなく、原語への思い入れであることが多い。たった一文字の助

(注:「原語」の「語」に傍点ルビ)
図書(岩波書店)2008年11月号、p.18 中村亮「『手癖の悪い翻訳家』」

ちなみに『手癖の悪い翻訳家』というのは、ハンガリーの作家コスタラーニの短編小説の題名らしいのだが、コスタラーニ、検索にひっかかってくれないんで、調べようがないんである。お手上げだ。もしや、中村亮二のでっち上げ。だったらすごい、

と興奮しかけたら、コストラーニ・デジェー(デジュィ)というのに行き当たって、多分間違いなさそうなのだった。なーんだ。有名な人らしいです、コスタラーニ、うんにゃ、コストラーニ、かいな。ハンガリーの作家なんて一人も知らないんで、すんまっせん。

ところで「図書」では、中村亮二を、翻訳家としている。それなのに彼の著作(翻訳)は、ネット上に一つもないのである。不思議だったが、京都造形芸術大学の教員紹介欄(http://creativewriting.jp/faculty/07.html)の彼のプロフィールに「日本文学のフランス語への翻訳」という文字を見つけ、やっと日本の著作がない理由がわかった。なぁーんだ。

日本語でも、もっと何か書いてくれないかしら、中村亮二。


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