私は“認知症高齢者の問題”に関わっているが、認知症によって生活能力が崩れていく中、彼らの「誇り」や「尊厳」への固執がなかなか壊れないことにしばしば驚かされる。知的能力や身体能力が低下し、日常の生活に難渋する認知症高齢者においても、「誇りの平等」が担保されることは重大なテーマなのである。換言すれば、人間とはそれほど業の深いものなのだ。そして「近代」とは、その人間の業を煽るシステムである。近代の終焉が宣言されて久しいが、ポストモダン言説などで超克したり解体したりできるほど「近代」はヤワではない。なにしろ人間の

一冊の本(朝日新聞出版)2008年9月号、p.8 釈徹宗「宗教聖典を乱読する13 特別編 イスラム原理主義を考える――アブラハム宗教を終えるにあたって」

イスラム原理主義について語っていて、それもわかりやすく、かつためになることばかりだったのだが、認知症高齢者の「誇り」や「尊厳」への固執がなかなか壊れないというくだりには、はっとさせられた。私の母は認知症ではないが、最近の母との確執で、このことを痛感させられたからだった(もちろん、私も固執してるから衝突するのだろう)。

080917-141