読書感想文の厄介は、「この本は大体このように読まれるもの」という「正解」が、どこかで決まっていることだ。だから、能力のある子供は、その「正解」を当てに来る。別種の能力のある子供は、その「正解」を引っくり返しに来る。前者は、「大筋の合意に沿った文芸批評」になり、後者は「衝撃的な文芸批評」になる。どちらも「書き手のあり方」を尊重した文芸批評にはなるだろうが、果たしてその本が「そのように読まれてしかるべき」であるのかどうかは分からない。「正解」が予定調和に確定されているという、その前提が正しいかどうかも分からな

(注:1行目の「このように読まれるもの」には傍点ルビ)
一冊の本(朝日新聞出版)2008年9月号、p.106 橋本治「行雲流水録 第八十七回 文芸批評は、まず「あらすじ」だろう」

080912-136で引用した豊崎(大は立)由美の「削りに削った末に残った粗筋と引用。それは立派な批評です」に通じる発言なのだろうが、それはおいといて、橋本治の言うように、学校教育における読書感想文(や詩の創作など)が、有益かどうかはかなり疑問である。私は、かねがね実用文(手紙や報告書の類)の習得がよろしかろうと思っている。自分がいい年をして格式のある(別になくてもいいんだが)手紙すら書けないということもあるのだが、実用文なら採点もしやすかろう。感想に採点基準は持ち込みにくいが、粗筋ならはっきりする。って、採点にこだわっているわけじゃないが……。

「正解」であるような「あらすじ」の存在を前提にして、そのことに寄っかかっていると、「重大な齟齬」が見えなくなる。

あ、は、はい。「正解」なんていう採点基準は、持ち込んじゃいけないんですね。

080919-143