複数の高い煙突から煙が吐き出される、タイトルバックの醜い光景は、横浜だけのものではなかった。私の見た範囲でいえば、東京では無数の運河が埋められ、高速道路が作られていた。高速道路の西銀座の部分を、私(私たちというべきか)ははじめ駐車場だと考えていた。すべてが〈東京オリンピック〉を建て前とするゼネコンの仕事の一環とは思わなかったのである。

これら〈高度成長〉と呼ばれるものの毒に、敏感だった黒澤明が気づかなかったはずはない。この毒は人間に染み込み、人間性を変える。東京のスモッグは前年(一九六二年)に問題化していたが、日本人はまだ公害に気づかず、大きな問題にはなっていなかった。ただ、逗子駅から横須賀線で東京に通う私は、大船駅を過ぎるあたりから空の色が公害で濁るのに気づいていた。二、三年前にはこんなことはなかったのだ。
本の話(文藝春秋)2008年9月号、p.41 小林信彦黒澤明という時代 第15回」

東京高速道路については8月19日にも触れたが、大人の小林信彦は、駐車場ができると思いながらその工事を見ていたわけだ。外堀の記憶となると私のはかなり曖昧で、後年になって見た写真の印象に置き換わっている可能性がある。

東京高速道路が完成すると、隣の自動車修理工場の青年たちが、夜、私(母や妹も)を高速道路(と言っていたかは?)のドライブに連れ出してくれた。あの短い区間を、何度か繰り返しただ走っては、大人たちも大喜びしていたのだ。笑ってしまうような話だが、本当のことである。

080927-151