彼は生涯、童貞を貫いた。

――という一文を、幕末の思想家・吉田松陰を語る文面の中に、私たちはしばしば見つけることができる。その文言は、たった十行ほどの紹介文の中にも我が物顔でおさまっており、彼の残した数々の業績を浸食している。「松下村塾を開いた人」と同じくらいの比重で「一生童貞だった人」として語り継がれる松陰。別段、それ自体けっして悪いことではない。むしろこのエピソードは、女人に使う精力があれば学問に傾けたいという彼の勤勉さを伝えるものなのだ。しかし、実際のところどうだったのだろう。意志をもって貫いたのか、貫かざるを得なかったのか、うっかり貫いてしまったのか。それは誰にもわからない。ただひとつ言えるのは、草場の陰で松陰は確実に歯噛みしているだろうことである。「私の人生のポイントは、そこではない」と。
月刊百科(平凡社)2008年9月号、p.8 木内昇「現実から物語が生まれる瞬間」

そうね。草場の陰で「確実に」歯噛みしてるんだったらね。んで、これすら余計なこと、と思ってるってことだって。だって私のように、そのことを忘れていた人(いるんです、そういう人間だって。ま、私の場合は他のことも含めて忘れてたりするんだけど)に、その部分(だけ)は忘れなさんな、と言ってるようなものだから。

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