しかしながら、いくらひねったところで、学識・見識のたいしてない人があるように見せかけるわけだから、当然そこには無理と混乱が生じる訳であって、このように字というものはその偉さを主たる理由として、人に緊張や混乱を与えるものであり、いっそンな罪作りなものは止めてしまった方がよほど世の中のためといえるが、一概にそうとも言えぬのは、字が偉いには偉いなりの理由があるのであって、ただ、その偉い、という現象だけを見て、俺より偉い奴はみな気に入らぬ。世の中を阿呆に統一しろ。というのは、はっきりいって暴論、そんな無茶はわたく

なんてことは、
「はんちゃひら ふんじょらぎばさ けぺそんて へまちょぎっちょれ よじれまいおす」
或いは、
「さらこめて せけのとんなめ ぐるたらみ たれしりちらす あとはへらめも」
といった歌の前に無力で、こんなものは、はっきり言って言葉に対する暴力である。
かかる暴力そのものが字で書かれているということをどのように理解すればよいのであろうか。
なんてことを考えてしまうのもまた、わたくしがつまらぬ常識に捕らわれている健全な人間であることの証左に他ならず、作者は、日常、平生、常日頃から、ソーク、スーマ、というようになんでも言葉を逆さまに発音する癖があることからも明らかなように、恐るべき価値転倒者であるのであり、したがって旅にまつわるエッセーが収録された本書は、真面目に生きていこう、老後のことを考えて貯蓄しようなどということを考えるものにとってきわめて危険な書物である。

町田康破滅の石だたみ』(角川春樹事務所、2008年、p. 195)

昨日紹介した部分を読んだ時、私はまだ町田康のすごさを認識していなかったのだが(他の本も手元にはあるのに、読んだことがなかったのね)、最後までこの本を読んでしまった今となっては、あれでよかったのかと思い悩む、ことなど私にはないのだけれど、まあそれに近い心境になっているのだった。

んで、何かもうちっと別のものをと思ったのだが、どれもこれも面白いくせに、そこをちょろっと抜き書きしてみると、町田康の文はたちまち死んでしまうのであった。それならばてんで、もちっと、もちっと、と書き写していったのだが、やはり死んでるような気がしてならない。

だってこれ『山下洋輔エッセイ・コレクション?』の解説文なんだよ(多分)。もともと解説文らしくないにしてもさ。お手上げっす。

081018-172