時間の露わな姿に自分を直面させているのは家内の病気なのに、その家内が保証しているものこそが日常的な時間そのものなのである。だからこそ、玄関のチャイムを鳴らして扉が開き、家内と犬が出て来るのを見ると、その瞬間に安堵が胸にひろがり、私はたちまち日常的な時間に身を託すことができる。それがいかに一時の錯覚で、数ヶ月後には自分から奪われてしまうものだと自覚していても。

江藤淳『妻と私・幼年時代』(文春文庫、2001年、p.42)の『妻と私』から

江藤淳が妻のあとを追うようにして自殺したと聞いた時、江藤淳でも自殺をするのだと、江藤淳をほとんど知らなくくせに、そしてそこに至る経緯などに興味を持つこともなく、簡単にそう思ってしまった私だったが、10年近く経った今、そんなふうには考えなくなった。

最近の人間はもしかしたら、長生きしすぎなのではないか、と思い始めているのだ。

心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。
平成十一年七月二十一日 江藤淳

自分を形骸としか認識できなくなった時(これすらも難しい気がする)、こんな潔い遺書を書けるだろうか。

081128-213