伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』(創元推理文庫、2006年)

 「それは河崎君のこと?」麗子さんは察しが良かった。
 ええ、とわたしは認める。「彼はたぶん、まだ幼児の時に、生まれて初めて鏡で自分の顔を見た瞬間に、図に乗ったんですよ。俺は何と素敵なんだろう、って」
 「世界中の女は俺のものだ、って?」
 「まさに」
 「でも、良さそうな青年だった。礼儀正しいし」
 「戦略ですよ、戦略。だいたい、詐欺師は礼儀正しいじゃないですか。お年寄りを騙す人なんてそうですよ。慇懃無礼って言うんですかね」
 「慇懃無礼はそういう意味じゃないし、わたしはお年寄りじゃない」麗子さんはむすりとしているので、怒っているのかな、と不安になったが、「あ、これ、別に怒っているわけじゃないから」と付け足してくれた。
 「河崎のやり方は、それこそ詐欺師の手口ですよ。騙されないでくださいね」
 「琴美ちゃん、その顔を見ると、本当に彼のこと怒ってるんだね」
 「怒りは憎しみに変わり、そして、報復のために民衆が立ち上がるのです」わたしは右手を顔の横に持ち上げて、ぎゅっと握った。「ぎりぎり」
 「それは歯軋りの音ね」麗子さんが言う。
 「めらめら」
 「それは、怒りの炎だ」麗子さんは静かに言って、しばらく右ストレートの反復をやっていた。(p.153)最初の「慇懃」に「いんぎん」のルビ

いつも思うのだが、こんな魅力ある会話を伊坂幸太郎はしているのだろうか。そりゃ小説と日常生活は違って当然ではあるけれど、私の会話は、紙に書き起こしたら、多分、じゃなくて絶対、つまらないと断言できるんで。

 人というものは、行動すべき時に限って、億劫がるのかもしれない。(p.297)

 人というものは、慎重にことを運ぶべき時に限って、行動を急いでしまうのかもしれない。(p.304)

こんな風に章の終わりにまで細工がしてあるのだから油断できません、というほど念入りに読んじゃいないが。なにしろつい流し読みしてしまう流暢さなんだもの。見逃してしまうでしょ。

 「俺がはじめて椎名を見た時、ディランを歌っていただろ。俺は、あのディランの声が好きなんだ。優しいし、厳しい。無責任で、温かい。前に河崎が言っていたんだ」
 「河崎は君なんだってば」
 「あれが神様の声だ、って彼は言ったんだ」
 「その神様の歌を、僕が口ずさんでいたから、誘ったの?」
 麗子さんは無表情ではあったものの、慰めるように僕の背中を叩いた。「君は」と彼女は言った。「君は、物語に途中参加しただけなんだ。謝ることはない」
 その奇妙な励ましに、少しだけ納得した。僕は、自分こそが主人公で、今こうして生活している「現在」こそが世界の真ん中だと思い込んでいた。けれど、正確には違うかもしれない。河崎たちが体験した「二年前」こそが正式な物語なのだ。主役は僕ではなくて、彼ら三人だ。(p.347)

意地悪して種明かしをしているつもりはないのだけれど、自分用のメモとしては書き記しておかねば。あ、でも途中でも同じようなことは言っていたけどね。

 僕はいかにも自分が主人公であるような気分で生きているけれど、よく考えてみれば、他人の人生の中では脇役に過ぎない。そんなことに、今さらながらに気がついた。
 河崎たちの物語に、僕は途中参加しているのかもしれない。
 自分で自覚している以上に、僕は間が抜けているから。(p.182)

しかしともかく、原作を読んだことで、三年前に観た映画の『アヒルと鴨のコインロッカー』(監督、脚本:中村義洋)を、まるっきり理解できてなかったことだけははっきりしたかなぁ。原作→映画だったらともかく、この作品をいきなり映画では、私の頭じゃ無理でした(レッサーパンダを子供が動物園から盗み出す場面を削っていたのは正解と思うが、ま、これは枝葉のことだけど)。