それに、ありがたいことに、わたしのような世代のものには(わたしもワープロで講義の資料を作っていた時期がしばらくあってワープロがこわれたのと後継の機種が売られていないため今は元へ戻ったのだが)、手書きの方が、ワープロ打ちより速度の点で早いのである。一字一字、書いて行くこの手作業が、きらいではないのだ。これは、ある意味では、自分の書体を愛好しているためともいえるから、文字愛の前に自己愛があるのではないかといわれれば、そんな気もする。

(注:「自己愛」に「ナルシズム」のルビ)
図書(岩波書店)2008年9月号、p.14 岡井隆「文字愛について」

自分の字を好きになれる人がいるなんて、びっくりである。なにしろ私ときたら、小学校の高学年になってこの方、大げさでなく、自分の字と果てるともなく戦ってきたからだ。

自分の字が嫌いになる病は、中学あたりがピークだったか。ノートにひと文字書いて、それが気に入らず、消しては書きの繰り返しで、次の字にも進めず、ひどいときは新しいページや紙(ルーズリーフにしてた時)にしてしまったりと、とんでもない無駄をしていたことまであった(ヤな思い出だ)。そのくせ、気に入らない字が連なりだしてくると、あとは書き殴りでいくしかなく、つまりこの病は、新学期や新しいノートになった時に、重症となるのだった。

あれほど悪戦苦闘してたのに、当時の中ではマシと思われるノートを今見てみると、神経病みのような字が並んでいて、ゾッとするばかりである。もちろんそれだけ自分の字の出来を気にしていたから、その変遷もすさまじく、だからなのではあるが。社会人になって数年したところで、さすがに少しはあきらめもついて(むろん相当修正を重ねたつもりなのだが)、今の字に落ち着くわけだが、それでも気に入らない字がいくつかあって、それがどうしても直せないものだから、全部を別の書体(まる字のようなもの)にして、ごまかしていたことすらあった。

その苦労からかなりの部分を解放してくれたのがPC(ワープロ)だった。文字愛(岡井隆とは別の意味の)は人一倍ながら、自分の字に自己愛など見いだせない私は、だから手書きに戻ろうなどとは露とも思わず、PCにしがみついている毎日なのである。

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