「あと五年じゃない。早ければ、五年だ。しかも他の本には、はっきりしたことは何もわからないって書いてあったじゃないか。あきらめろ。最悪なのは、お前が死ぬことじゃない。お前が生き続けてしまうことだ。人間の抜け殻になってまで」

荻原浩明日の記憶』(光文社、2005年、p.141)

記憶というのは実に奇妙なもので、私もアルツハイマーではないかと思うような経験をいくつかしている(ど忘れ程度のものではなく、もっととんでもないもの。書くと長くなるし、みっともないのでやめるが)。記憶の欠落は、本人にその自覚がないからその時は平然としていられるわけで、この本のようにはならない気もするが、だから本がつまらないかというとそんなことはなくて、考えさせられることが多かった。

怖かったのだ。記憶を失ってしまうのが。記憶の死は、肉体の死より具体的な恐怖だった。

この本が原作となった同名の映画は公開時に観ているが、本の方が、主人公の、恐怖に立ち向かう姿勢がはっきり出ている感じがあって、感情移入はずっとしやすかった。やはりメディアの特性の違いは大きく、病気の微妙な進行度合いなども、映画でとなると難しいのかもしれない。

そうはいっても本も主人公の視点で書かれているから、記憶の喪失をどう表現するかというのはやっかいだったはずだ。何行か前に「この本のようにはならない気もするが」と、よく考えもせずに書いてしまったが、主人公に自覚がなければそういうふうにしか書けないという制約が生じてしまうわけで、致し方ない面がある。

読んでいてダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』や清水義範の『靄の中の終章』が頭に浮かんできたが、この本は「その時点」まで行かずに終わる。が、なかなかいい終わり方だった。

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