独自の文体をもち、主題的にも妥協を許さない監督が、制作会社の無理解や財政上の困難から不遇を託つといったことは、けっして珍しいことではない。とはいえ多くの監督がそれに言及することを好まないことも、事実である。鈴木清順は日活を不当に解雇され、一九七〇年代をなかば沈黙のうちに過ごしたが、飄々とした姿勢を崩さず、達観して好機の到来を待ち続けた。オーソン・ウェルズはつねに空元気を振り翳し、大法螺を吹いては天文学的な浪費を続けた。ジャン=リュック・ゴダールは高い矜持ゆえに不遇という観念を認めず、停滞した過去とは決別す

こうした同時代の監督のなかに大島渚を置いてみると、彼の不器用なまでの真面目さが際立って意識されてくる。というも大島はいかなる場合にも作品の不在に拘泥し、文章を通してなんとかそれを論理化しようと真剣に努めてきたからである。なぜ自分が映画を撮ることができないでいるのか。この問題をめぐって、彼は焦燥と苛立ちに駆られながらも立論を続けてきた。こうした大島の姿勢は、いわゆる「世界の巨匠」のなかでは特異なことであるように思われる。
ちくま(筑摩書房)2008年11月号、p.42  四方田犬彦大島渚と日本 10 なぜ映画を撮れないのか」

昨日、大島渚の『愛と希望の街』を引っ張り出してきたのはまったくの偶然(次にこれを引用することは忘れていた)。

四方田犬彦の文を読んでいて、あーそんなだったかもしれないと、当時映画が好きだった人間なら誰しも思いそうな気がするのだが、なにしろ私ときたら、その頃、というか今に至るまで、で、この先もなんだけど、ずんでれりんふにゃら、もしくは、へりぱらっちしゅれみるら、なもんでさー。って、腰が引けてら。

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