津村記久子『ポトスライムの舟』(講談社、2009年)

 「二十九歳の今から三十歳のこの日までをそっくり懸けて世界一周か。なんかこう、童話でようある感じでもあるよね。その一年間は加齢を免除されるというかさ。違う世界に行って帰って来たら、ほとんど時間が経ってませんでした、的な。うまく言えんな。まあ、年齢なんか自己申告でどうとでも言えるし、二十九歳と三十歳の具体的な違いなんてほんとはないしな」
 「もしわたしが工場の年収を全部それに突っ込んだとしたら、その一年間はクルージング用の一年間であって、私の一年間ではないと言える、ってこと?」(p.24『ポトスライムの舟』)

え、なに、これ。

 生きるために薄給を稼いで、小銭で生命を維持している。そうでありながら、工場でのすべての時間を、世界一周という行為に換金することもできる。ナガセは首を傾けながら、自分の生活に一石を投じるものが、世界一周であるような気分になってきていた。いけない、と思う。しかし、何がいけないのかもうまく説明できない。たとえ最終的にクルージングに行かないとしても、これからの一年間で一六三万円そっくり貯めることは少しもいけないことではない、という言い訳を思いつく。(p.24)

そう言われてみても、「何がいけないのかもうまく説明できない」。まいったな。でも三十歳なら、そう思えただろうか。今の私には想像もつかないことなので。それとももう少し年をとったなら、そうしたらまたこんな考えにも何ていうこともなく同調してしまったりするのだろうか(ただ換金すべきものがなくなってそうだが、って、これは今もか)。

この思いつき部分が、妙に昂揚した気分にさせてくれたものだから、小説は、このあと失速、と思って読み終えたのだが、今またパラパラと拾い読みしてみると、現実部分だって面白いのだった。

 仕事そのものの上でこき使われることは平気だった。そいうものだろうという覚悟は常にしていたから。しかし、あらぬ疑いをかけられ、それが晴れてもそこで溜めた憂さをどこにも持っていきようがないということは耐え難かった。あらかじめ、ツガワが所感を述べることを封じる方向へ話題を持っていかれるようにプログラムされているかのような状況は、ツガワの意欲を衰えさせるには充分だった。彼女達はそれを、あの親愛を込めた手つきや、元気出して、という言葉つきで行うのだった。そんなことがこれから、幾度となく繰り返されるかと思うと、そこに黙って座っていることすらままならないようにツガワには思えた。(p.150『十二月の窓辺』)

蟹工船』がブームだったらしいが、どう考えても、今読むべき本はこっちじゃないか。