黒田●之助『黒田●之助 私の履歴書』(日本経済新聞社、S61年)●は「日」+「章」

 父を語る時、郷土、富山を抜きにしてはできない。大正三年に新しくつけた屋号「黒田国光堂」と大正六年に初めてつくった商標「国誉」に込められていたのは生まれ故郷への思いそのものである。国は越中、富山を指していたのであった。
 富山から大阪に出るには、高岡との境にある呉羽山を越えなければならない。高岡はこの山を挟んで西に位置するので呉西、逆に富山側を呉東と呼ぶ。両地区は気質、気候、産物すべてが違い、呉羽山を越えることは異国への旅立ちにも似ていた。峠には白壁の茶屋が一軒あり、見送りに来た家族や知人との別れの場所になる。「あんま(兄さん)、しっかりやってこられませ」と励ましの言葉が飛ぶ。故郷の人々、山河との惜別の情景が父の心に強く焼き付いていたことは間違いない。
 父は常に「自分の商品は故郷につながっている。仮にも郷土の名を汚すようなことをしてはいけない」と自らに言い聞かせてきた。その心が国の光、国の誉れという形になって表現されたものと信じている。現在の社名のコクヨはもちろん、国誉に由来する。(p.29)

私は文房具屋に育ち、イヤというほど家業を手伝わされたので、コクヨが国誉であることは知っていたのだが、国の概念が違っていたとはねぇ。