角田光代『対岸の彼女』(文春文庫、2007年)

 父に会ったってナナコは何も言わないだろうに、自分は何も必死に隠しているんだと、うしろの窓をふりかえり、遠ざかるタクシーを見つめて葵は思う。ナナコは何も言わない。客寄せのために内部をごてごて飾りつけしたタクシーに乗っている父を見ても、せこい計算をしている卑怯なあたしのことも、いや、何も言わないというよりも――と、前を向き、息を整えて葵は考える。だいたいナナコはなんのことも悪く言ったりしないのだ。もちろん嫌いな教師の悪口は言うし、この町の窮屈さを悪し様に言い募ったりはする。けれどたとえば、嫌いだという表現よりは好きだという言葉を使う、できないという表現をせずしたいのだと言う、むかつくと言うときには必ず相手を笑わせる、そういう全部が、しかしいい子ちゃんぶっているようには感じられない。たぶん意識もせずにそういう言いかたをしているんだろうから、きっと、ナナコという子は、きれいなものばかりを見てきたんだろうと葵は思う。汚いこと、醜いこと、ひどいこと、傷つけられるようなことを、だれかが慎重に排した道をきっと歩いてきたんだろう、と。(p.74)

今まで読んだ角田光代の中ではこの本が一番か(って、そんなに読んではないのだが)。ナナコと葵の関係が葵と小夜子に受け継がれる物語。今のナナコに会いたくてしかたがない。