吉本隆明『私小説は悪に耐えるか』(新潮文庫、車谷長吉『鹽壺の匙』の解説)

 私小説自然主義文学の胎内から生れるについては、その経緯がどんなにいびつであっても、それなりの必然があった。また「私」をめぐる人間関係を描写するかぎり、真実らしさにゆきつくことについて理念にも似た確信もあった。その場所で言えば私小説はひとつの文学史的な必然を背負っている。だが車谷長吉が「私小説」というとき、文学史的な私小説とはかかわりがない。独特な「私」がほつんと孤立して、悪作の描写のうちに成立しているものをさしている。文学史というようなものをこの作家は赦してもいないし、文学史から赦されてもいない。だが主人公の「私」の振舞いは悪にはちがいないが、背徳的でもなければ、人間性にたいするルール違反でもない。また「私」の独特な遇せられ方も、悲惨ではあってもルール違反ではない。わたしのかんがえではこの作者が人間の心の働きの病気や、人間以外の生きものの世界を、ひとりでに人間とおなじ実生活の圏内に包括できているからだとおもえる。ひとりでにというのは語弊で、ほんとはじぶんの狂気の振舞いの悲しさをよく心得ているのかもしれない。(p.302)「悪作」に「おさ」、「赦」に「ゆる」のルビ

 車谷長吉の「私小説」はまったくモチーフがちがう。じぶんの体験した不幸がこれでもかこれでもかというような、どんなひどい状態の重なりだとしても、この不幸の構造は普遍的なものだ、いやむしろありふれた家族や近親のあいだの資質や環境や歪んだ関係のもつれから噴きだしてきたものだ。だがこの不幸を普遍性としてではなく「私」の心情の深い井戸の底で怨恨のように受けとめるかぎり、固有性しかあらわれはしない。家族や近親の振舞いをとくに父親や母親の振舞いを、乳幼児のときから陰惨な見捨てられたものの憎悪と侮蔑でしか見てこなかったものの悪意の表出がこの作者の「私小説」のモチーフだとすれば、わたしたちは稀にみる本格的な悪の意想をこの作品から読みとっていいことになる。いいかえれば、「私」をどうしようもない悪性のものとして描きだしたいとするこの作者の意図は充分に尊重されてしかるべきだとおもえる。(p.306)「歪」に「ゆが」、「侮蔑」に「ぶべつ」、「稀」に「まれ」のルビ

 車谷長吉の「私小説」の特色がどこにあるかはとてもはっきりしている。この作家が固執している「私」の悪作を描くことが延命できるかどうかは、すこしでも平穏に慣れてしまえば、さざ波ひとつ立てない油膜が、すうと社会の表面をふさいでしまう現在に、どう耐えていくかということと同義だというべきだ。(p.310)「悪作」に「おさ」のルビ

車谷長吉をすごいとは思っても、どうすごいのかがうまく言い表せずにいたが、こういうことなんだろう。自分の手にあまるものになると途端に引用ばかりになってしまうが、それは御容赦願いたく……。