車谷長吉『鹽壺の匙』(新潮文庫、H7年)

 詩や小説を書くことは救済の装置であると同時に、一つの悪である。ことにも私小説を鬻ぐことは、いわば女が春を鬻ぐに似たことであて、私はこの二十年余の間、ここに録した文章を書きながら、心にあるむごさを感じつづけて来た。併しにも拘わらず書き続けて来たのは、書くことが私にはただ一つの救いだったからである。凡て生前の遺稿として書いた。書くことはまた一つの狂気である。
 この二十数年の間に世の中に行なわれる言説は大きな変容を遂げ、その過程において私小説は毒虫のごとく忌まれ、さげすみを受けて来た。そのような言説をなす人には、それはそれなりの思い上がった理屈があるのであるが、私はそのような言説に触れるたびに、ざまァ見やがれ、と思って来た。
 私は文章を書くことによって、何人かの掛け替えのない知己を得た。それは天の恵みと言ってもいいような出来事だった。されば、それがあったればこそ、ここに収めた文章も書くことが出来た、と思わないわけには行かない。ゆくりなくもこの本を上板するに際して、心を沈めてそれを思う次第である。
  平成四年五月二十二日。
                                  嘉。
(p.292『あとがき』)「私小説」の「私」に「わたくし」、「鬻」に「ひさ」、「併」に「しか」、「拘」に「かかわ」、「凡」に「すべ」、「理屈」に「りくつ」のルビ

先(八月)に『漂流物』を読んでいたので、この「あとがき」ほどには驚かずにすんだ。

意外なことに、車谷長吉は、朝日新聞の人生相談欄「悩みのるつぼ」の回答者の一人になっていて、そこで「普通、人は20歳くらいになると、もう人間性は出来上がってしまっています。心を入れ替えたいのですが、と申されますが、世の中の9割9分の人は入れ替えることは出来ません」などと答えているのである。言っていることは正しいにしても、相談者にこの回答でいいのか。そもそもなぜ回答者になったのか。ま、人生相談欄の読者は相談者ではなく、つまり人生相談も読み物なんで、疑問は愚問なんでありますが。

祖母は「銭。」のことを「ジェニ。」あるいは「ジェン。」と言っていた。「金。」という言葉はつかわなかった。「銭がないんは、首がないんもおんなじや。」「足を踏まれた人が、踏んだ人に、すんまへん言いながら生きて行くんが、この世の道理やが。」「このごろハムたらソーセージたら言うもんが出来とうやろ、人間ほどむごいもんはあらへん、牛でも鶏でもあないなもんにしてしもて、平気で喰うて行くんやが。」「仏の教えは毛穴から。」(p.310)「銭」に「ジエニ」、「鶏」に「とり」、「喰」に「く」のルビ

私が気にしているのは、内容ではなく、単語に付けてある句点で、「あとがき」には日付や、「嘉。」と名前(多分、本名が嘉彦とあるので)にまで付けている(この表記は『鹽壺の匙』と「あとがき」だけなんだけどね)。何でこうなったのか、知りたいのだな。

『鹽壺の匙』には、表題作の他『なんまんだあ絵』『白桃』『愚か者』『萬蔵の場合』『吃りの父が歌った軍歌』の五篇が収録されていて、その中の『愚か者』はさらに『死卵』『抜髪』『桃の木の話』『トランジスターのお婆ァ』『母の髪を吸うた松の木の物語』の五篇からなる。また解説として、吉本隆明私小説は悪に耐えるか』が収録されている。