カーレド・ホッセイニ(佐藤耕士訳)『君のためなら千回でも』上巻(ハヤカワepi文庫、2007年)

 「いいか、ムッラーがなにを教えようと、罪はひとつ、たったひとつしかない。それは盗みだ。ほかの罪はどれも、盗みの変種にすぎない。わかるか?」(p.33)

主人公アミールの父ババの教え。ムッラーは先生。「男を殺せば、それは男の命を盗むこと」で「男に妻がいれば、その妻の夫を盗むことになるし、子どもがいれば、子どもから父親を盗むことになる。嘘をつくのは、だれかの真実を知る権利を盗むことだ。人を騙すのは、公平さへの権利を盗むことになる」のだと。

 その日の夕方、人生ではじめての短編小説を書いた。かかった時間は三十分。魔法の杯を見つけた男の、暗い小さなお話だ。男はその杯のなかに涙をこぼせば涙が真珠に変わるのを知った。しかし、いままでずっと貧しくても幸せだったため、滅多に涙などこぼれたことがない。そこで男は、涙に金持ちにしてもらおうと、自分を悲しくさせる方法をいろいろと考え出した。真珠が増えていくにつれ、男の欲も増していった。物語の結末では、男が山のような真珠の上に坐りながら、ナイフを持った手で最愛の妻の刺殺死体を抱きしめ、杯のなかに涙しているのだった。(p.53)

タマネギの匂いで涙を出してはいけないのか、とハッサンに言われてしまうのだが、これは、涙は悲しみの涙でなければならないとでもすればいいのではないか……。だって、ラヒム・ハーンが絶賛しただけのことがある素晴らしい話なんだもの。

 一九七六年の夏、わたしは十三歳になった。世界にその名を知られていない平和なアフガニスタンの、最後から二番目の夏だ。ババとわたしの仲は、もうすでに冷え切っていた。そのきっかけとなったのは、一緒にチューリップを植えているときにわたしがうっかり口を滑らせた、新しい召使いを雇ったらという一言だと思う。そんな話をいい出したことをわたしは後悔していた。心から悔やんでいた。けれども、その話を切り出さなかったところで、親子のささやかな幸福のひとときはきっと終わりを告げていただろう。それほど早くは訪れなかったにせよ、かならずそのときが来たはずだ。(略)(p.150)

まったくそうなのだった。「世界にその名を知られていない平和なアフガニスタン」を少し知っただけでも、この本を読んだ価値は十分あるだろう。

 カブールでは木の枝を折ってそれをクレジットカード代わりに使ってたんですと、本当は説明したかった。よくハッサンと一緒に、木の枝を持ってパン屋に行ったものだ。するとパン屋の主人は、その枝にナイフで刻みを入れてくれる。ひとつの刻みが、熱いかまどのなかから彼が取り出したナンひとつをあらわす。そして月末になると、ババが木の枝の刻みの数だけパン屋に代金を払うのだ。それでおしまい。なんの問題もないし、IDも必要ない。(p.204) 「かまど」に「タンドール」のルビ

ね。

 「ぼくたちを放っといてください、アハ」ハッサンは低い声でいい放った。ハッサンはアセフのことを、敬称をあらわすアハで呼んだ。胸に一瞬よぎるものがあった。階級社会のなかで自分の位置を胸に刻みつけて生きるのは、どんな気分なのだろう。(p.70)

とはいえ、むろん平和はこんなことの上にあったのである。それでもそのあとにやってくるソ連タリバンと続く圧政の悲劇(これだって主人公を含むある人々にとっての悲劇となるのかも)とは比べものにならないくらいマシだったのだろうが。