カーレド・ホッセイニ(佐藤耕士訳)『君のためなら千回でも』下巻(ハヤカワepi文庫、2007年)

(略)おれの長男の目ン玉を賭けてもいいが、あんた、そのパコール帽をかぶるのははじめてじゃないのか」ファリドは、若くして朽ちかけた歯を見せて、にやりと笑った。「いい線いってるだろ?」
 「どうしてそんなこというんだい」
 「あんたが知りたがったんじゃないか」ファリドはぴしゃりといい放ち、干し草が詰まった大きな麻袋を背中にくくりつけて土の道をよたよた歩く、ぼろをまとった老人を指さした。「あれがほんとのアフガニスタン人さ、アハ・サヒブ。あれがおれの知ってるアフガニスタン人だよ。あんたはどうだ? あんたはいつだってここじゃ旅行者だったんだ。あんたがそれを知らないだけで」(p.62)

神は最後には許してくれるものだ。神はババを、私を、そしておまえを許してくれるだろう。おまえにもババと同じことができるように願っている。できるなら、ババを許してやってくれ。そしてこの私も許してほしい。だが一番大事なのは、おまえが自分を許すことだ。(p.166)

二番目の引用は、ラヒム・ハーンがアミールに残した手紙から。

後半の映画のような展開には面食らったが(って、すでに映画化されて日本でも公開されていたとは! 映画を年間180本観てる私だけど、知りませんでした)、ま、それもよしとしよう。

父親が同じでも、生まれた子はパシュトゥーン人とハザラ人になってしまうあたり、日本人には理解出来ない部分だが、この本のおかげで、土埃で霞んでいたアフガニスタンが多少は身近になったような気がしている。