別役実『日々の暮し方』(白水社、1990年)

「日々の暮し方」というのは、そりゃ人それぞれあるのだろうと思うが、別役実が日々を暮らすとなると、それは全部「正しいやり方」でもってなされなければならないらしい。なにしろ本を開くと、「正しい退屈の仕方」だの「正しい電信柱の登り方」だのがずらーっと四十五も並んでいるのである。

そんなこと言われるのは御免被ると、押しつけの嫌いな私は読むのをやめるところなのだが、この時は臍が曲がりに曲がっていたので読んでしまったのだった。が、果たして正しい○○の仕方が書いてあったのかどうかわからなくなってしまうような本なのであった。いや、わかる人にはわかるのだろう。けれど、少なくとも私のような頭の悪い人間には無理で、別役実の屁理屈に付き合わされているだけとしか思えなかったのである(にしては、随所で喜んじまって、憤慨することなどなかったのだけれど)。

最後まで読むと「正しい屁理屈のつけ方」はともかく「一通りの屁理屈のつけ方」は身についた気分になる本だろうか。

 日記を書いていない人間だけが、生きることに専念することが出来る。生きることを、ひたすら生きるためにのみ、推進することが出来る。従って原則的なことを言えば、「正しい日記の書き方」などというものはない。日記は、あくまでも書かないことが正しい、のである。しかし現実には、そうとばかりも言ってはいられないだろう。毎年定期的に日記帳は生産され、本屋の店頭で販売されている。我々が日記を書かなくなり、従ってそれを購入しなくなったら、たちまちそれら生産販売業者は失業することになりかねない。武器生産販売業者を失業させないために、したくもない戦争もしなければならないように、我々も彼等のために、日記帳を買い、日記をつけなければならない。(p.144)

 あくびとかくしゃみというものは、本来教育されなくても自然に出来るものであった。しかし、人間は退化するものである。江戸時代に「あくび指南所」のあったことは、既に落語などでもおなじみであるが、そのころから人類は、「教えてやらないと屁もひれない」事態に突入しつつあるのである。動物は生まれたままに動物であるが、人間は教育されなくては人間ではない、というのはその意味である。古事記には、いざなぎとイザナミが最初のセックスをかささぎに学んだという記述があるが、恐らく堕落はそのことろからはじまったのであろう。(p.151)