小川洋子『博士の愛した数式』(新潮社、2003年)

 「君の電話番号は何番かね」
 「576の1455です」
 「5761455だって? 素晴らしいじゃないか。1億までの間に存在する素数の個数に等しいとは」
 いかにも関心したふうに、博士はうなずいた。
 自分の電話番号のどこが素晴らしいのか理解はできなくても、彼の口調にこもる温かみは伝わってきた。自分の知識を見せびらかす様子はなく、むしろ逆に慎みと素直さが感じられた。もしかしたら自分の番号には特別な運命が秘められており、それを所有する自分の運命もまた特別なのではないだろうか、という錯覚に陥らせてくれる温かみだった。(p.11)

映画を先(公開時の2006年)に観てしまっているので、読んでいても比較ばかりしてしまう。映画でも「口調にこもる温かみは伝わって」きたけれど、家政婦が感じた心の中までは……どうだったか。もう細かいところは忘れてしまっているので、ここを内面の声で語らせていたかどうか、思いだせないのだが、たとえそうであったにしても、本なら自分に合ったペースで読み進めることができるから、こういう部分は到底本にかなわない。

 小さくてか弱い字だった。その後ろに女の人の顔が描いてあった。ショートヘアで頬が丸く、唇の横にほくろがあり、幼稚園児並の絵ではあったが、私の似顔だとすぐにぴんときた。(p.19)

え、ほくろ? 深津絵里のは、唇の横というよりは頬だけれど、それでもあの配役には「特別な運命が秘められて」いたのか、と思いたくなってくる。

 数学の才能と関係があるのかないのかは不明だが、博士には不思議な能力があった。まず一つは、言葉を瞬時に逆さまにすることができた。(p.104)

回文を作るのは私の趣味のひとつなので、こんな箇所は出っくわしただけでうれしくなってしまう。

 普段使っている言葉が、数学に登場した途端、ロマンティックな響きを持つのはなぜだろう、と私は思った。友愛数でも双子素数でも、的確さと同時に、詩の一節から抜け出してきたような恥じらいが感じられる。イメージが鮮やかに沸き上がり、その中で数字が抱擁を交わしていたり、お揃いの洋服を着て手でつないで立っていたりする。(p.87)

 「物質にも自然現象にも感情にも左右されない、永遠の真実は、目に見えないのだ。数学はその姿を解明し、表現することができる。なにものもそれを邪魔できない」
 空腹を抱え、事務所の床を磨きながら、ルートの心配ばかりしている私には、博士が言うところの、永遠に正しい真実の存在が必要だった。目に見えない世界が、目に見える世界を支えているという実感が必要だった。厳かに暗闇を貫く、幅も面積もない、無限にのびてゆく一本の真実の直線。その直線こそが、私に微かな安らぎをもたらした。(p.160)

数学も算数も、そして数字さえも苦手な私には、映画では置いてけぼりにされた感じがあったが、それは本を読んでも変わらなかった。けれど、もう数学を毛嫌いはしないんじゃないか(今だけだったり)。

 「君が料理を作っている姿が好きなんだ」(p.186)

もう一箇所(だったか?)、この言葉が使われていた場所があったと思うのだが、パラパラと本をめくったくらいでは見つけられなかった。それにしてもこれってなかなかの殺し文句と思うが。

 「八十分のテープは、壊れてしまいました。義弟の記憶は最早、一九七五年から先へは一分たりとも前進できなくなっております」
 「施設へお世話にうかがってもいいんです」
 「その必要はありません。何でも向こうでやってくれます。それに……」
 一度言い淀んでから、彼女は続けた。
 「私がおります。義弟は、あなたを覚えることは一生できません。けれど私のことは、一生忘れません」(p.248)

依頼人と博士との関係が、映画ではちょっとはぐらかされたような気がしていたのだが、本も似たようなものか。映画の方は本当に細部を忘れてしまったので、何ともいえないのだが、このセリフは、本がずーっと家政婦寄り(彼女自身が語り手なんで当然なのだが)だったことを考えると、ここは依頼人の決意のようにも聞こえて心地よい。反面、家政婦と博士の関係は、どんなにいろんなことがあっても結局は八十分の関係だったと思い知らされるわけで、そうでなかったらと考えると……って、これは考えても意味がないか。

それにしても、また映画を観たくなった。早く観ないと、今度は本の方を忘れちゃいそうなんだけど、DVDとか観る習慣がないんでねぇ……。