D・カーネギー(山口博訳)『人を動かす[新装版]』(創元社、1999年)

 およそ人を扱う場合には、相手を論理の動物だと思ってはならない。相手は感情の動物であり、しかも偏見に満ち、自尊心と虚栄心によって行動するということをよく心得ておかねばならない。(p.27)

この本には確かに「人を動かす」秘訣が沢山書いてある。具体例の羅列で構成されている(これはよい点でもあるが)ため多少くどくもあるが、かなりの部分でそれは正しくて、実践できれば円満な人間関係とよい結果を仕事にももたらせてくれるだろう。けれど、うまく説明できないのだが、どうにもひっかかるのだ。それは上のような文章に出くわすと感じることで、原文ではどうなのかはしらないが、「人を扱う場合」という言い回しにもあらわれているように、どこか相手を見下しているような気がしてしまうのである。

自分への戒めとして読むにはいいと思うのだが、他人をどうこうしようと思って読んではいけないのではないか。そう思ってしまうのだ。

 何の働きもせずに生きて行ける動物は、犬だけだ。にわとりは卵を産み、牛は乳を出し、カナリヤは歌をうたわねばならないが、犬はただ愛情を人にささげるだけで生きて行ける。(p.73)

D・カーネギーは猫(ハムスターなんかもだ)の存在を忘れているようだ。猫は愛情さえささげずに生きて行ける。

私のように、こういったつまらない粗探しをしてはいけない、とD・カーネギーは繰り返し言っている。

 理屈どおりに動く人間は、めったにいるものではない。たいていの人は偏見を持ち、先入観、嫉妬心、猜疑心、恐怖心、ねたみ、自負心などにむしばまれている。自分たちの主義、宗教、髪の刈り方、そして、クラーク・ゲーブルが好きだとか嫌いだとかいった考え方を、なかなか変えようとしないものだ。もし人のまちがいを指摘したければ、つぎの文章を読んでからにしていただきたい。ジェームス・ロビンソン教授の名著『精神の発展過程』の一節である。
 「われわれは、あまりたいした抵抗を感じないで自分の考え方を変える場合がよくある。ところが、人から誤りを指摘されると、腹を立てて、意地を張る。われわれは実にいいかげんな動機から、いろいろな信念を持つようになる。だが、その信念をだれかが変えさせようとすると、われわれは、がむしゃらに反対する。この場合、われわれが重視しているのは、明らかに、信念そのものではなく、危機にひんした自尊心なのである……“わたしの”というなんでもないことばが、実は、人の世のなかでは、いちばんたいせつなことばである。このことばを正しくとらえることが、思慮分別のはじまりだ。“わたしの”食事、“わたしの”犬、“わたしの”家、“わたしの”父、“わたしの”国、“わたしの”神様――下に何がつこうとも、これらの“わたしの”ということばには同じ強さの意味がこもっている。われわれは、自分のものとなれば、時計であろうと自動車であろうと、あるいはまた、天文、地理、歴史、医学その他の知識であろうと、とにかく、それがけなされれば、ひとしく腹を立てる……われわれは、真実と思いなれてきたものを、いつまでも信じていたいのだ。その信念をゆるがすようなものがあらわれれば、憤慨する。そして、何とか口実を見つけ出してもとの信念にしがみつこうとする。結局、われわれのいわゆる論議は、たいていの場合、自分の信念に固執するための論拠を見いだす努力に終始することになる」。(p.171)

これを読んで、私は自分の母のことを思い浮かべていた。最近の母は、老いて自分の思うようにいかないことが多くなったからか、まったくここに書いてあるとおりなのである。が、私ときたらD・カーネギーが最もしてはいけないという方法で、母の考えを改めさせようとしていたのだった。

そこまでわかっていながら、私が母に対する態度を変えようと思ったかというと、これまたそうではなかったのだった。というのは、私自身が「自分の信念に固執するための論拠を見いだす努力に終始」してしまっていたからなんだろう……。

そしてまた思うのである。考えを変えさせることができたら、それでいいのか、とも。例えば反対に、自分がそんなことで自分の信念を変えてしまったとしたら、何だか恥ずかしいではないか。私は、私の考えが間違っているのであれば、理屈でもって私の信念を変えてほしい、のである。

彼女は年中、夫に不平や非難をあびせた。彼女によるとリンカーンは良いところがひとつもない。猫背で歩き方もなっていない。インディアンそっくりだ。耳の格好や顔の道具立ても気に入らない。(p.326)

上の「インディアンそっくり」という偏見はリンカーン夫人の言葉なのかもしれないが、それをそのまま引っぱってきてしまったD・カーネギー(1888〜1955)にも、今の視点で見ると、配慮の足りなさを感じないわけにはいかない。

本書の日本語版翻訳権は、株式会社創元社がこれを保有す。本書の一部あるいは全部について、いかなる形においても出版社の許可なくこれを利用することを禁止する。(p.8)

「本書の全部または一部を無断で複写・複製することを禁じます。」(これも本書の奥付から)くらいのことは、よく書かれているが、本の最初で断られちゃうとねー。

実は、今回は最初、

マーク・トウェーンの「激越な手紙」(p.25)でも紹介しようと思っていたが、上のような警告があるのでやめておいた。ま、上の引用だって「本書の一部」に違いないのだが、まさかそこまでは文句は言ってこないだろう。

という文だけ載せてお終いにするつもりだったのだ。でも、引用しちゃったんだから仕方がない。ま、このブログを読んでいる人などそうはいないはず(これは本当)で、と都合よく解釈してしまっているのだけれど。以上。