田宮俊作『田宮模型の仕事』(文春文庫、2000年)

 ほかの模型メーカーは、つぎつぎとプラモデルの新作を出しました。私のところではあいかわらず、落ち目になった木製模型屋として細々とやっていました。
 そんなおり、樹脂を扱っている材料屋さんから「新規に金型を作れないなら、不要になったプラスチック玩具の金型を再利用したらどうですか」とすすめられました。見せていただくと「グリコのおまけ」のような、小さなレーシングカーの金型でした。傾斜のあるところで転がして遊ぶものです。
 私はしばらく本格的なプラモデルを作るまでの間、これで食いつなぐつもりで、拝借することにしました。部品をバラのまま箱づめし、“模型キット”として売ったのです。名前はベビーレーサーとか、ベビートラックなどとつけました。
 箱絵は古本屋で仕入れたアメリカの雑誌のイラストを借用し、ロータスとかブラバムとか適当に車種を決めました。五十円という安物でしたが、子どもには手ごろな値段だったのでしょう。プラスチック製というだけでけっこう売れたのです。つくづく、世はプラスチックの時代であることを認識させられました。
 いま思えばなんとも恥ずかしい模型もどきだったのですが、先日、ある模型雑誌の編集者のエッセイに、そのことが書かれていました。その内容を要約すると、


   「僕は小学生のころ、バイオリンを習わされていました。イヤでしょうがなかったのですが、母はなんとか練習させようと『一時間練習したら五十円のプラモデルを買ってあげる』と交換条件をだしてきました。その五十円で買ったのが、タミヤのベビートラックでした。素朴な模型でしたが、透明パーツの窓とシート、グリルが別々にちゃんとあるのは、このころからさすがタミヤ。ボックスアートもアメリカン・ポップアート風イラストで、当時としてはアカ抜けていました」


 これを読んだときは、さすがに弱りました。なにしろ金型はオモチャのものを流用しただけで、私たちはなにも手を入れていないのです。小さな箱のデザインもアメリカの雑誌に載っていたイラストを真似しただけのものなのです。この編集者にお会いする機会があったら、おわびとお礼を言わないといけないと思いました。でも、いい印象で記憶してもらっていたというのは、模型屋として本当にありがたいことです。(p.58)

こういう苦労話(成功話)はたいてい何を読んでも面白い。そしてそれが本書のように自分の子供時代と多少でも被っているとなると余計である。もっとも私は、そうプラモ作りには熱中しないですんだのであるが……。