小川洋子『完璧な病室』(中公文庫、2004年)

表題作の他、『揚羽蝶が壊れる時』『冷めない紅茶』『ダイヴィング・プール』を収録。

『完璧な病室』

 「電気をつけましょうか。」
 「いいえ。このままにしておいて下さい。」
 「ふ、服は脱いだ方がいいですか。」
 「はい。あなたの、胸の筋肉で抱いて欲しいんです。」
 S医師は本当に、わたしが答えられることしか聞かなかった。もし彼が一度でも、吃りながらでも、どうして、という言葉を口にしたら、わたしは唖の子供のように立ちすくんでしまうだろう。
 彼はわたしにとって恋人でも夫でも幼なじみでもなく、抽象的な人間だ。二人の間には思い出も未来もなく、死に近づいた弟がいるだけだ。それなのに、弟をいとおしむ気持ちが彼の筋肉を求めていた。(p.70)

近年の小川洋子の作品を知らなかったら、もっとてこずって、こうは読み進められなかったかもしれない。

 「生活って、うすのろよね。幼稚で汚らしいの。」(p.53)

なんて言われてしまっても、まあ、想像くらいは多少ついたにしても、どうしようもないんで。

 そして彼の筋肉に完全に閉じ込められた時、肉感的な孤独がわたしを安らかにした。
 ――このままひっそりと無機物のように清らかに生きていけたらいいのに。何も変わらず、何も変性せず、何も腐敗せず、このままずっと弟と一緒にいられたらいいのに。――(p.72)

「昔っから、“生活”が嫌い」(p.44)な「わたし」は、清潔で無機的な病室に安らぎをおぼえるのだけれど、一方で、「筋肉が水に濡れた姿」(p.23)に、「初恋の人が水泳部だったから」というちょっと承服しがたい(と目くじら立てることもないのだが)説明付で渇望しているのだ。確かに筋肉は、腐敗していく有機物ではあるけれど、「腐敗=老い、死」というイメージからは遠い。小川洋子の筋肉願望は、このあとの短篇にも出てくるから、やっぱり「初恋」が関係しているだろうか。

揚羽蝶が壊れる時』

 五年もここで働いていて、彼は適度に食べている自分の正常さを、疑うことがないのだろうか、と思った。彼らははっきり、世話をする者とされる者に分かれている。正常な者と異常な者に。わたしはもう一切れ肉片を押し込んだ。食欲は硬いゴムのようなままだった。わたしの中の異常は、どうしてわたしから区別することができないのだろう。何故こんなにも重苦しく、下腹部に吸い付いてくるのだろう。そしてミコトは、揚羽蝶の羽音に紛れ込んだまま、決してわたしの内側を見ようとしない。(p.130)

その気になって読むと怖くなってくる(他のも全部そうなのだが)。妊娠という、どう考えても恐ろしい経験とは無縁な存在であることにほっとしていた。「食べている自分の正常さ」って、これも『完璧な病室』と同じ世界を引きずっている。

『冷めない紅茶』

 右上がりのとがっと文字だった。
 サトウの字は昆虫のようだと、わたしはいつも思う。指先にのせると、足先に密集している小さな棘や、胸の硬い甲羅や、神経質に動く触角が皮膚をチクチク刺して気持ち悪い、そんな字だ。(p.150)

ある時期の私の字のことを言われているような気分になって、落ち着かなくなった。あの字体とおさらばしておいて本当によかった。

 「ぴったりの場所が見つかると、そこから彼女を眺めていた。ある日、彼女が本当に眠っているんじゃないかと、心配になってきた。吸い込まれそうなくらい深い眠りだ。放っておいたら、すうっと渦の目の底に沈んでしまいそうだった。だから僕は彼女に近寄って、肩に手を触れたんだ。彼女を掌の中でたしかめたかったんだ。」
 「彼が触れてくれた時、ことん、って鍵がはずれるような感じがしたわ。
 彼女は小さな声で言った
 あらかじめ用意され、磨き上げられたような会話だった。手作りのデザートがあり紅茶の香りがあり、そして恋の始まりを記憶する鮮明な言葉がある。無傷な午後だった。庭の緑はまどろむような静けさで風に吹かれ、出窓から入ってくる光はカーテンのレース模様を揺らしていた。(p.161)

こんな経験をしてしまったらいったいどうなってしまうのだろう。そう思っていると、その実体を疑うような終わり方をしてしまう。そうか。だから「あらかじめ用意され、磨き上げられたような会話」なのか? 

『ダイヴィング・プール』

 わたしは残酷な気持ちを持て余してうんざりしているのに、どうしてあなたはこんなにも優しくできるのだろう、と純の横顔を見ながら思う。飛び込み台を降りてひかり園に帰ってきた純の筋肉は、いつの間にか真綿のように温かくなっていて、直樹のぜろぜろした声や、子供たちがまき散らす食べ物の屑や、母親の喋り過ぎや、そんなわたしの神経に引っ掛かるものを全部順番に吸い取っていってくれる。本当の父親は行方知れずで、母親は彼を見離してアルコールに溺れていったというのに、いったいどこで純がその優しさを手に入れたのか不思議だった。彼の優しさの一番奥にある泉の水に身体を浸してみたい、そしてふかふかの真綿で身体を拭いてもらいたいと、わたしはいつも息苦しいくらいに願っていた。(p.206)

 リエを泣かせることと、純の濡れた筋肉を眺めること。
 それだけだった。わたしを気持ちよく慰めてくれるのは、その二つだけだった。はっきりしているのに、誰にも、もちろん純にもうまく説明できない種類のことだった。(p.240)

 純がもっと一方的に責めてくれたら、何か言い訳ができたかもしれなかった。でも純は、恋を打ち明けるようにわたしの秘密をあばいてしまった。だからわたしはどうしようもできずに、自分の胸の鼓動を聞いていた。(p.243)

『冷めない紅茶』とこの作品になると、具体的な物語の流れが勝ってきて、つまり私のような未熟な読者にはずっと読みやすくなってきて、ありがたい。が、文章を引用しようとすると、おかしなことにそうではないところからになってしまう。

純の優しさというけれど、純は「わたし」(彩)をいつも見ていたのだ。彩の行動を知っていてリエに手を差しのべなかったのだから、純は彩にまさに「恋を打ち明け」ているわけで、彩と同罪と思うのだが。「残酷な仕打ちのように受け止め」てしまう彩が、私にはよくわからなかった。