湊かなえ『告白』(双葉社、2008年)

 物心ついた頃から、ひたすら褒められながら育った僕は、自分は頭がいいし、スポーツもできると思っていた。でも、田舎とはいえ、それなりに人数の多い小学校に通っていると、三年生になる頃には、それは母さんのただの願望であって、実際の僕はがんばったところで中の上くらいにしかなれないことに気付いてた。(p.154)

 母さんは何度も僕にそう訊ねた。「そうじゃない」と僕は心の中で答える。母さんの理想に限りなく近いヤツが失敗したことを、成功させたかったんだ。とは、さすがに言えなかった。(p.199)

 殺人が犯罪であることは理解できる。しかし、悪であることは理解できない。人間は地球上に限りなく存在する物体の一つにすぎない。何らかの利益を得るための手段が、ある物体の消滅であるならば、それは致し方ないことではないだろうか。
 しかし、こんな自分であっても、学校で「命」というテーマで作文を書けと課題が出れば、クラスの誰より、いや、県内の中学生の誰よりも上手く書けるのだ。
 ドストエフスキーの『罪と罰』から「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、現行秩序を踏みこえる権利を持つ」という部分を引用し、それに対して「命の尊さ」という言葉を用いながら、この世に肯定してもよい殺人などないことを、中学生らしい言葉で主張する。原稿用紙五枚、半時間足らずの作業だ。
 何を言いたいのか? 文章で表す道徳観念など、学校に入ってからの単なる学習効果でしかないということだ。
 殺人は悪である、と本能で感じる人などいるのだろうか。信仰心の薄いこの国の人たちの大半は、物心つき始めた頃からの学習により、そう思い込まされているだけではないのか。だからこそ、残虐な犯罪者が死刑になるのは当然だと認めることができるのだ。そこに矛盾が生じているにもかかわらず。
 しかし、ごくまれに、学習により、己の地位や名誉とは関係なく、たとえ犯罪者であろうと命の重さは同じ、と異議を唱える人もいる。いったい、どのような学習を受ければ、そのような感性が育つのだろう。生まれたときから、命の尊さを謳った昔話(そんなものあるのか?)を、毎晩耳元でささやき続けられたのだろうか。もしそうならば、納得できる。自分がそのような感性を持ち合わせていないことに。(p.208) 「謳」に「うた」のルビ

 長くなるのでもう引用はやめるが、三つとも(最初の二つは同一人物)元担任教師に犯人AとBと呼ばれた生徒の独白?とブログにあった文。面白いことに、状況は正反対に近いのだが、二人ともマザコンなのだ。一人など自分の頭の良さを振りかざしてはいるけれど、まあ中学生なんで、こんななのかしらん(頭の出来については到底かないませんが)。

2009年度本屋大賞受賞にふさわしい面白さ。が、つっこみどころがいくつかと、あと後味があまりよろしくないのがね。