谷川雁『汝、尾をふらざるか 詩人とは何か』(思潮社 詩の森文庫、2005年)

 なぜなら俳句がつきあたれなかった近代思想の核にともかくも接触したのが現代詩であり、それは異文明をみつめてふっと黙ったカナリアの内なる〈唖〉の自己表出とみなせますから。すぐれた現代詩は一種の〈手話〉だとはいえませんか。現代詩の過去になんらかの名誉があたえられるとするなら、日本語の総体が異なる核にふれたときの戦慄と沈黙の体現者であろうとしたという側面以外には考えられません。現代詩は根源的に無声であるよりほかないものです。朗読してかっこうのいい作品など、それだけで凡作の容疑をかけてしかるべきです。むろん詩であるかぎり内的な音楽は必至です。しかし無声の激しさにおいて、現代詩は俳句の地点にとどまることはできません。ここであなたは定型といわれる。するとその定型なるものは、短歌はもちろん俳句よりも深く無声であって、かつ外在する定型ということになりますか。であれば饒舌の見本市というよりほかはない現在の作品群にたいする痛棒として、その限りにおいて私はあなたの提唱に今日的意味をうけとります。(p.173)「飯島耕一――定型のはじめや声のなき葬り」より

 詩は青春の文学と関根弘が古めかしい定理をもちだしたら、それなりに賛否の波紋が起こるのだから、日本の詩の世界はやはり芭蕉がたたずんだ池くらいの広さかなあと思っています。青春の文学、あたりまえのことでしょう。ぼくなら詩は二十五才と五十才、あとはお休みという風に言ったらよいと思います。どうみても中年の文学ではありませんよ。これは、問題は青春を保持することのむつかしさではなく、ヴァレリイが言ったように、成熟することの困難さでしょう。いま詩を書いている御老人たちはいずれも酸っぱいくだもので、熟れそこなったからあわてて日光を吸いこんでいるのにまちがいありませんが、それはまあ日本の文明と平行している次第ですから、ぼくはむしろこういう議論を支える気分や傾向がいかにも青春くさいのにあまり気乗りしない拍手を送って、すやすや眠ることにします。(p.202) 谷川雁語録「ハガキ批評」より

とても谷川雁を語ることなどできないのだけれど、読んでしまったので、上の二つを読書記録としての引用として残しておく。

それにしてもぞくぞくしてしまうことを当たり前のように言ってしまっていて爽快ですらあるのだが、その記述対象についてまったくもって何も知らないので、どこまで正しいのかがわからない。

 いったい「分からない」とはどういうことか。相手の思想に触ることができないということではないか。それなら黙っておればよいのだ。無縁なものには攻撃する必要もなければ防衛する必要もない。にもかかわらず「分からない」とわめき、つぎには「分かりたい」とにじりよってくるのは、ほうっておけば自分が危いという感覚に責められるからだ。
 つまり分からないものからさっさと立ち去ることことをせず、なおも分からないと発言する者は彼の小さな所有地が無事に保たれるのを確認したがっているのである。(p.202)谷川雁語録「分からないという非難の渦に」より

はい。