林望『イギリスはおいしい』(文春文庫、2005年)

★★★

1991年の日本エッセイスト・クラブ賞受賞作。引用は、迷いに迷って三(四)つだけ選んだ。

そのうちの一つは私の酒嫌いを代弁してくれているもので、これは私用にするには若干の手直し必要なのだが、まあ大方はこんなところなので、長い引用になったが、酒など飲んでいられるかってんだ、とリンボウ先生の力を借りまして気勢を上げたのでありました(でも最近は酒を無理強いされなくなったよな。ま、そういう場所にほとんど顔を出さないからよく知らないんだが)。

 遙か明治の初め、文明開化の時代に、西洋の食べ物も次々とわが国にもたらされたのであるが、そのなかで、パンというものに接した日本人が、これを、主食と副食という二分割的食構造の中で把握したであろう事は、容易に想像できる。なぜなら、現代この情報化の御時世の国際人たるわれわれでさえ、そう思っているではないか。
 実際の経緯については、詳しく調べてみたわけではないから分からないけれど、どうして「物の名」としての名辞はポルトガル語又はフランス語なのに、日本のパンはイギリス式の食パンなのだろう。この問題はすこぶる暗示的である。(p.105)

 かくして、厚切りにすれば、ご飯を食べるが如く、薄切りにすれば麩を口にするが如く(だからふつう薄切りにはしない)、日本のパンは、姿こそイギリス式でも、そのじつ紛れもなく「日本の主食」なのであった。(p.107)

 私は、一切酒というものを口にしない人間である。なかんずく、日本の酔っぱらいを憎むことは、あたかも親の敵の如くであって、宴会、酒席、ことに放歌高吟して、路傍にたむろし、厚化粧の下らぬ女の色に惑い、または電柱に放尿し、甚だしきは反吐を撒き散らし、朦朧たる猩々の如き赭顔にクサい息で人にからみ、果ては家を破り、身体を損ない、千害万毒一つとして取るべきところがない。そいうはた迷惑ばかりではない。ごくごっく希には酒品の高い、呑んで己を失せず酔ってますます高潔というような人もあるにはあるが、そういう人はむしろ例外中の例外と言うべく、一般に酒呑みというものは、一たび酒を口にするや、たちまちに時間の観念を失い、三時間五時間、遂には夜の明けるをも覚えず、切りもなく喋々する事共は、ほとんど意味のないタワケ言で、その間素面でこれらの無意味なたわごとを聞かされている当方は、全くその無為に過ぎて行く時間を惜しむこと、これはまた少年の春を惜しむが如くである。自分自身体質的に全く酒を受け付けぬ者であるせいもあって、かかる酔漢の不徳義を嫌悪する気持ちは日を逐い歳を重ねるに従って、ますます強くなる一方である。
 あなたは酒を呑まないから、人生の楽しみの半分は知らないわけだ、なぞと余計なお節介を言う人があるけれど、左様な時間の無駄遣いなる「人生の楽しみ」なんぞは、一向に知らぬままで結構、さらに後悔する気遣いはない。
 酒を呑んだことが無いわけではない。酒場に足を踏み入れたことが無いわけでもない。私は学生時代、運動部だったので、成人するまえから、いやな酒を無理に呑まされ、呑んでは戻し、戻しては苦しむということの連続で、ほとんどパブロフの犬的に、酒の臭いをかぐと直ちに吐き気を催す、という具合になってしまったのである。酒は練習すれば強くなるなどというのは、暴論俗説も甚だしく、人によっては練習することによってますます参ってしまう場合のあることを酒呑みは知らないから、対抗上、私は声を励まして酔っぱらいを罵るのである。
 とにかく、私はかかる不浄の液体を口にするのは勿論、その気をかぐさえ不愉快の極みで、従って、日本では、酒場、バー、キャバレー、待合、呑み屋、その他もろもろの酒を供し色を売るような場所には一切出入りしないことにしている。もっとも、上等のフランス料理なぞを食べるに際して、他の人が、適切な量のワインを喫するなどということは必ずしも否定することはしないけれど、いやしくも、酒を呑み、理性を失し、女にたわぶるる為にのみ存在する場所に対する興味や希求といったものは、私の心の何処の片隅にも存在していないのである。
 私は、いつも理性的でありたいし、話すことには責任を持たねばならぬ。そうして、有限な時間を無駄にしては、御先祖様に申し訳がたたぬと思っているのである。(p.171)「敵」に「かたき」、「反吐」に「へど」、「朦朧」に「もうろう」、「猩々」に「しょうじょう」「赭顔」に「しゃがん」、「喋々」に「ちょうちょう」、「素面」に「しらふ」、「逐」に「お」、「何処」に「いずこ」のルビ

「男の料理」なんて、くそくらえだ。料理に、男も女もあるものか。あるのは、美味しい料理とまずい料理の区別だけだ。「男だから台所に入らない」、または「入れない」、などという時代錯誤の考え方(いや、時代錯誤というよりは、そういうのは維新で江戸を占領した薩長あたりのあきれはてた蛮風のなごりなので、都会では昔からそんなバカなことはなかったのである。現に、私の母方の祖父は江戸っ子で、料理の達人で、しょっちゅう台所に立って魚でも鳥でも捌いて料理していたものだ)を、私は心底馬鹿にしているし、反対に「男の料理」などというナンセンスな枠組みのなかで許されているある甘ったれた了簡も嫌悪するのである。
 料理は楽しいからする。それでよかろうじゃないか。
 しかし、例えば私が「僕は料理がだいすきで……」というときに、女たちが決まって言う「でも男の方の御料理はお要りようお構いなしでしょ」とか、「奥様の後かたづけが大変なんじゃありません?」とかいうたぐいの、ペッペッ、俗悪きわまる台詞や、それを口にするときの、ワイセツと言ってもよい、女どもの勝ち誇ったような薄ら笑い、そういうことどもを思い出すと、私は本当に女というものは度し難い、と心中ひそかに慨嘆するのである。差別だのなんだのと騒ぐくせに、どうして女たちは自分で自分の首を絞めるような差別意識を抜けられないのだろう。その妙な特権意識は、何のことはない、君たちが排斥きてやまない「役割分担」というやつの裏返しではないか。(p.255)「了簡」に「りょうけん」、「要」に「よ」、[台詞」に「せりふ」