百田尚樹『風の中のマリア』(講談社文庫、2011-1、解説:養老孟司)

★★☆

 オオスズメバチは、幼虫時代は肉食だが、成虫になると逆に肉などの固形物は一切食べられなくなる。そのため樹液や花蜜が食物となるが、最高の栄養源は幼虫の出す唾液だった。そこには特殊なアミノ酸化合物が含まれていて、これのお陰でオオスズメバチのワーカーは体内の脂肪を直接燃やしてエネルギーに変換することができる。人間を含むほとんどの生物は脂肪を燃やす場合、いったんグリセリンに変えてから分解してエネルギーに変換するが、この時、乳酸が発生し、筋肉疲労をひきおこす。しかし脂肪を直接燃やすことのできるオオスズメバチは、体内に乳酸を発生させないので、どれほど運動してもほとんど筋肉疲労を起こさない。オオスズメバチが一日に百キロ以上も飛べる驚異的な運動量を誇る秘密はそこにある。(p.26)

なにしろ性決定システムやゲノム共有率の図解まであるのだ(巻末には補足資料としての解説も)。小説になっているとはいえオオスズメバチ解説書と割り切ってしまってもいいくらいのデキなのである。

逆に言うと、これが弱点だろうか。例えば、キイロスズメバチとの死闘では、巣攻撃の綿密な攻撃態勢をワーカーたちで相談するのだが、最初の、主人公マリアの妹(あとから生まれたのは全部妹なんだが)エルザの出撃は、まるで初めての場所を偵察するかのような形をとっている。

生態学的にはいきなり大挙としては襲いかからないのだろう。相談内容とは噛み合わなくなっても、マリアが「エルザの出すエサ場マークフェロモン」を捉える場面が必要なのだ。

 マリアがエリザベトから栄養補給を受けている間、襲ってくるキイロスズメバチは他のオオスズメバチが追い払った。
 友軍の仲間たちは続けて他の戦士たちにも同じように甘露を口移しで与えていった。この行動はマリアにとっても他の仲間たちにとっても初めてのことだった。しかしまるでこの日のことが約束されていたかのように、マリアたちはこの補給作戦をスムーズに行うことができた。おそらくマリアたち戦士の本能の中に、この戦いのメカニズムが組み込まれていたのだろう。だとすれば、このキイロスズメバチとの戦いもはるか昔に約束されていたことなのだ。(p.253)

「はるか昔の約束」を反故にするわけにはいかないのは作者もだからね。

だから「恋」という章立てはあっても、それはあまりに些細なことで、とても恋とはいえず、でもだからこそ余計胸に突き刺さるのではあるが……(この部分はあえて引用しない)。

「恥を知りなさい! この悪辣な侵略者たち!」
 女王を守っていたワーカーたちが一斉に向かってきたが、マリアの後ろからやって来たドロテアが前に躍り出て、たちどころにワーカーたちを噛み殺した。そして女王バチに襲いかかり、その胴体を真っ二つに引き裂いた。三万頭ものワーカーを率いていた女王バチはあっけなく死んだ。(p.195)「悪辣」に「あくらつ」のルビ

オオスズメバチがミツバチの巣を襲う動画は前に見たことがあるが、まさに「悪辣な侵略者たち」そのもの、だった。まあ、最初からそういう生き物を主人公にしているのだけどね(このことだけでもすごい)。

 帝国から巣立っていったオスバチは三百頭近かったが、はたして何頭のオスが若い女王バチとめぐり逢い、その血を未来に残すことができるのだろうか。それが叶わない弟たちは哀れだと思った。
 ふと、ヴェーヴァルトのことを思い出した。本当に哀れなのはヴェーヴァルトだと思った。彼には最初からチャンスが与えられていなかった。運命と戦う機会さえ与えられなかったのだ。(p.275)

昆虫の数え方は、学術的に「頭」で統一されているんだってね。今識ったよ。識らないことだらけなので、本人は驚かないが、この歳になって今さら「頭」を使うとなると、抵抗があるんだな。言葉というのは、このあたりが難しくってへんてこりんに面白いところではあるんだが。この本には当然のことなのか、「頭」の説明などなかったので、わざと「頭」にしているのかと、で、だとしたら何で、などと考えてしまった私なのだった(よか、識らないことに驚けよ!)。

ヴェーヴァルトはマリアの恋の相手で、この恋については引用しないと書いたが、これはマリアの回想の一部ってことで……。頭についてだけなら、ここまで引かなくてもよかったんだが、まあ、ヴェーヴァルトに同情したんでね。