外山滋比古『日本語の作法』(新潮文庫8948、H22-1)★★☆

 かつて、大正の中頃のこと、「とてもきれいだ」というような言い方が始まって、心ある人は心を痛めたという。「とても」は、あとに否定のことばを伴うものときまっていて、「とても考えられない」のようになるのが普通であるのに、「とてもうまい」のように、肯定で結ぶのは、文法上、破格でおかしいのである。
 もともと、ことばはデモクラティックなものだから、変でも、おかしくても、みんなが使っていれば、そのうちに文法でも許容されるようになる。いまどき、「とても美しい」をおかしいと言う人はいない。もっとも、文章では、なお、そういう言い方を避ける人は少なくない。新聞の文章でも使われない。
 戦後になって、「ぜんぜん」が肯定を伴って、「ぜんぜんイカす」「ぜんぜん愉快だ」などという言い方があらわれた。「ぜんぜん」も元来、否定といっしょになって「ぜんぜん話にならない」のように用いられるもので、肯定と結びつくのは、「とても」が肯定を伴うのと同じように、破格の語法である。さすがに、これはまだ完全に許容されているとは言えない。紳士淑女は使用を慎んだ方が無難。(p.18)

言葉というのは難しい。その人の歴史に左右されるから。「ぜんぜん」の語法については頷けても、私にとって「とても」はそれこそ初耳だったりする。

語学学者でもなし、外山滋比古も言っているように文法すら後追いしてしまうことだから、とやかくいうつもりはないのだが、一度染みついた語感から逃れるのは大変なことなのだな、と改めて思う。

ただ破格な語法の「とても」が定着して「ぜんぜん」がいまだふらふらしているのは、教育やら啓蒙が大正期よりは発達しているからかもとは思う。ある種の言葉(の使われ方)が広がりだしても、現代では「そういう使い方は間違いである」と、本やテレビなどで繰り返し取り上げられて、野放図にはならないのである。

 二人で向き合って話すのは気づまりだが、何人かが車座になって語り合うのは楽しいという人が少なくない。世界に例を見ない座談会というものを考え出した菊池寛はさすがである。(p.83)

 よそからものをもらって知らん顔をしているのは少しも珍しくない。送る方もデパートなどに頼むことが少なくない。別に案内を出さないのが普通になった。かつてはこういう贈り物を“送りつける”と言って受け取らなかった人もある。いまは黙って頂戴するかわり、礼状も出さない。電話でお礼を言えばいい方である。お礼は電話では充分ではないという常識はいまの人には通じないらしい。(p.98)「頂戴」に「ちょうだい」のルビ

「“送りつける”と言って受け取らなかった人もある」も知らないことだった。やはり年配者の話はよーく聞いておかないと。

そういえば、もう15年位前になるかと思うが、品物が届いて礼状を出してすましていたら、次の日に電話がかかってきて非常識だとひどく叱られたことがあった。電話の主は義姉で、家人は小さくなっていた。

近しい間柄だから教えておかねばという気持ちが働いたとしても性急な、というのが何事にものろまな私の当時の感想だったが、今考えると翌日配送の宅配便がすでに定着していたのだから、電話でのお礼の方が理にかなっている。お叱りはごもっともだった。