外山滋比古『日本語の作法』(新潮文庫8948、H22-1)★★☆

かつて、大正の中頃のこと、「とてもきれいだ」というような言い方が始まって、心ある人は心を痛めたという。「とても」は、あとに否定のことばを伴うものときまっていて、「とても考えられない」のようになるのが普通であるのに、「とてもうまい」のように…

 藤堂志津子『まどろみの秋』(新潮文庫、平成10年)

昨日は佐賀のプロポーズを、打算的に考えないでもなかったのに、綾美からまるでプロポーズされたこと自体を祝福するような口調で話題にされると、急に気がとがめてきた。(p.162) どんな本でもひとつくらいは引用したくなる箇所があるものだが、この本には…

削りに削った末に残った粗筋と引用。それは立派な批評です。逆にいえば、その彫刻を経ていない粗筋紹介なぞウンコです。

本が好き!(光文社)2008年8月号vol.26、p.120 豊崎由美「ガター&スタンプ屋ですが、なにか? 私の書評術 2」安易にそうだ!そうだ!と同調していたら(これだってよく考えたら大変なことなのだけど)、とんでもないしっぺ返しが待っていた! 最後に、今も…

だいたい、みやげって高い。ハーゲンダッツが四個買えるお金と引き換えに、うまいかまずいかわからず、しかもかさばって移動の邪魔になる「みやげ用」の菓子を手に入れることの意義って何? おまけに田舎じゃ、食べあぐねた「みやげ菓子」があると、箱ごと親戚や近所の人に押しつけたりするではないか。みやげの周辺は非効率で満ちている。

R25(リクルート)2008年7月31日、No.76、p.40 豊島ミホ「やさぐれるには、まだ早い! 第38回 みやげの存在意義」そうだ、そうだ、って読んでいたら、最後は「今年の夏は、ちゃんと地元で選んだ『おみやげ』を持って帰ろう」だって。なんだい、せっかく「み…

予は宗教を哲学にて説明し、若しくは科学にて解釈せんとするものを見て、寧ろ御苦労千万のことゝ思ふてゐる。宗教は謂はゞ人の心の底から現出せられたる美術である。それを科学的弁証法や、哲学的推理法を以て、説明せんとするは、全く見当違ひであらう。固より宗教の補助学としては、哲学も科学も無用ではあるまい。

併し宗教そのものの本体は、決してさるものでは無い。宗教は予の見る処では、論ずべきものでは無くして、信ずべきものである。 民友(蘇峰会)春季号、H20年4月、p.3 蘇峰 徳富猪一郎「−蘇峰自傳−自らを解剖す(二十三)」徳富蘇峰に入れ込んだからではなく…

蘇峰は、50本以上の杖を所有し、愛用していた。山中湖畔の自然木からも自作していた。「ステッキとしては、未成品であり、薪としては既製品であるという如き姿」と『蘇峰自伝』でのべている。

徳富蘇峰館にあった「愛用の杖」の説明プレートから徳富蘇峰館には「愛杖家」蘇峰の杖45本が展示してあったけど、「薪としては既製品」かしらね。ここでのんびりしすぎたせいか、併設の三島由紀夫文学館が駆け足になってしまったのだな(出かけたのは6日の昨…

晩景の富士は、英雄偉人の晩節のごとく、実に見栄えがある。富士を礼賛するのは月並みであろう。けれども我等は正直に富士を礼賛する。

徳富蘇峰館にあった「蘇峰の愛した山中湖と富士山」の説明プレートから富士を褒めるには、とりあえず、月並みとか言って、断りを入れてみたくなるのかもね。もしくは太宰のような態度をとったりしてさ。080706-75

面白い書評はあっても、正しい書評なんてない。それが自分がブックレビューを書いたり読んだりする際の基本スタンスなんです。

本が好き!(光文社)2008年7月号、p.27 豊崎由美「ガター&スタンプ屋ですが、なにか」1 (崎は大が立)引用部分はほんの入口で、これを読むと、豊崎由美の書評についての意気込みがわかる。冒頭に紹介されているヴァージニア・ウルフの『書評について』から…

この物語はまさかと思う部分が真実である。

映画『ハンティング・パーティ』の冒頭に出てくる字幕と言われても、もう慣れっこになってしまってるからねー。多少ハイな部分はあるんだが、現代における戦争のぐちゃぐちゃ度がよく出ている映画だった。監督・脚本:リチャード・シェパード 日本語字幕:戸…