高島俊男『座右の名文 ぼくの好きな十人の文章家』★★★(文春新書570、2007-1)

この本の成り立ちがまえがきに書いてある。『本の雑誌』に書いた短文がきっかけでできたのだそうだ。そして、その短文も掲載されている。で、これが滅法面白い。

 小生が、最も相性がいいと感じるのは斎藤茂吉である。つねに文章が正直で、鈍重でありながら爽快である。そしてしばしば間がぬけている。これは、意識してそういう効果をねらっているのか、それとも天性間がぬけているのか。両方まじっているのであろう。(p.9)

ね。ま、簡潔故の魅力ということもあるが。

もちろん本文だっておもしろい。だから高島が好きな十人「新井白石本居宣長森鴎外内藤湖南夏目漱石幸田露伴津田左右吉柳田國男寺田寅彦斎藤茂吉(生年順)」(p.8)にそって一文ずつ引用するつもりでいたのだが、実は、好きな文章家という体裁を借りて高島はあることを繰り返し述べているのである。というわけで、今回はそこに絞って拾ってみた……。

 白石はたくさんの著述をのこしたが、白石の書いたものには、あるはっきりとした特徴がみられる。というのは、なんべんも言うように学問といえば支那の学問のことなのだから、学者の著述は「支那の古典について支那語で書く」ものにきまっていた。白石と同時代学者である荻生徂徠伊藤仁斎も、そういうかたちで著述をのこしている。これに対して白石のものは、そのほとんどが日本のことを書いている。しかもまた、それを日本語で書いている、というのが大きな特色である。さきにあげた『読史餘論』も『藩翰譜』もその例だ。
 日本のことばが学問の対象になるなどとは、その時代、あるいはそれまでの日本人にとってはまず奇抜な考えだった。日本語が学問を記述することばとして使えるということ、日本語で書いたものが学問的著述になるということも、だれにも思いつかないことだった。新井白石は、学者でありながら日本のことを日本語で書いたいう、まことに画期的なことをした人物なのだ。(p.32)

 まあ、日本というのはそんな国ではある。明治以降は今度は欧米のことを知る人が尊敬された。イギリスやアメリカの知識がある、あるいはあちらのことばがしゃべれる、という人がうやまわれる。日本のことなんか知らんといえば、いやさすがに学者だ、えらい、ともてはやされた。おんなじことだ。日本人はずっとむかしからいまにいたるまで、「価値あるものは日本のそとにある」と考えている。それが、江戸時代の末までは支那であり、明治のはじめからは西洋にかわった。これに対して異議をとなえ、日本のなかに価値をもとめ、それを至上のものと考えたのが、本居宣長だった。(p.45)

「京都の支那学」は、「東京の漢学」にくらべるとはるかに健全なものだ。真に学問の名に値するものではあるが、対象を客観的にみるものだから、ちっとも支那を尊敬しない。尊敬する必要はもちろんないが、尊敬しなかった結果、「支配してもかまわない」ということになった。(p.86)

 明治というのはなにしろへんてこりんな時代で、なんでも西洋人のものさしで判断した。自分の判断に自信がもてないというよりも、日本人の価値基準そのものが全部ほろびちゃったといったほうがいい。いまになってみると、明治人の気骨などと言う人がいるけれども、どうも明治時代というのは、とくに前半は、非常に軽佻浮薄な時代であったとぼくは思っている。(p.140)

 論語に対してだけでなく、支那思想全般への敬意をもたないところが、津田左右吉の特徴でもあり、ぼくがすきなところでもある
 支那人の思想は支那人の生活から生まれてきたものであって、生活基盤がちがう日本人にはなんのゆかりもないものである、と左右吉は考えた。これもた、たいへんユニークです。
 ぼくが生涯最大の影響をうけた本、『支那思想と日本』にもこの思想がつらぬかれている。昭和十三年、岩波新書の創刊時の一冊で、当時の時流−−日本における支那思想の影響を大きく見つもる−−に反対する立場から出版されたものだ。ぼくはこれを大学生のときに読み、ひっくりかえるほどの衝撃をうけた。
 そもそもぼくが中国文学科に進んだのは、漢文にしたしんだことから、支那をなんとなくしたしい国、日本と共通する文化をもった国と思っていたことによる。この本は、そんな漠然とした甘い親近感を粉々にうちくだいた。多くのことをおしえてくれた本だが、とりわけ「支那と日本は別々の歴史と文化をもった、ちがう国である」ということ、そして「支那思想をありがたがるのはばからしい」ということ、この二点を叩きこんでくれた。「まへがき」から、本人が書いたこの本の要約を引く。
(略)
 津田左右吉はここでも書いているように、「東洋文化」の存在を否定する。このあたり、内藤湖南とは正反対だ。支那文化の影響を極力大きくとらえようとしたのが湖南なら、左右吉はそれをできるだけ小さく考えようとした。ぼくは二人の大学者をともにこのうえなく尊敬するが、こういう見解の相違については「どちらが絶対に正しい」ともきめがたく、なかなかに困った問題なのである。(p.143)

左右吉の文の引用部分は孫引きにもなるし、なくても通じるので省略した。