小栗左多里『プチ修行』★★☆(幻冬舎文庫、H19/H22-3)

 修行の途中、座禅を組みに行ったお寺で気がついたことがある。お寺にいる人が誰一人、幸せそうな顔なんてしていないのだ。長年修行している人も、幸せどころか世界中の不幸をしょって立っているみたいな感じである。どう考えてもその辺で犬を散歩させている人の方が幸せそうだ。
 しかしその犬が死んだ時、飼い主は多いに嘆き悲しむだろうけど、修行者は「命はいつか終わる」と冷静に受け止められるかもしれない。修行をしていくと、そうやって「心の波」が振れなくなっていくのだろうと思う。
 それは、幸せなのか。
 私は修行をしていくうちに、ある言葉を思い出した。
「幸せとは、心の強さのことである」
 これこそが、真実なのかもしれない。貧乏だったり辛い状況であっても「幸せだ」と笑っていられる人もいれば、お金持ちでも満たされないまま生涯を過ごす人もいる。
 結局、「幸せ」とは条件ではなく、どのような場所にいてもそれを「幸せだと思えるかどうか」だけにかかっている。
「幸せだと思えるか」は言い換えれば「感謝できるか」だと思う。「感謝する心」、つまりそれが実は「強い心」であり「足りない何か」なのではないかなあと。私は思ったのでした。(p.252)

まだ続くのだけれど……。

「たぶん、幸せじゃないと感じる瞬間があるから」修行をするのだと、小栗左多里は「はじめに」に書いている。え、そんなことが修行に結びつくかなぁ? というか、修行は私、きっとしないと思う。何かの練習ならするだろうけど(修行の練習ならする?)。

だったらこんな本は読まないでしょ(読むのは修行の練習だったり?)。ま、そうなのだけど、ブックオフの105円本だったので、つい他の本の中に紛れ込ませていたのだった。

とはいえ、ねぇ。……修行じゃなくてプチ修行だったからかなぁ。自分には絶対関係ないことがお手軽体験できるとでも思ったのかしら(すでにその時の心境すら謎)。

というわけで、内容に関係ないコメントで、ごめん。だいたい私って幸せについてこんなに沢山考えられないんだもの。それだけで何だか感心してしまったんである。

ただし−−結局、「幸せ」とは条件ではなく、どのような場所にいてもそれを「幸せだと思えるかどうか」だけにかかっている−−と言われてしまうと、そうかなと思う半面、幸せがえらくつまらないものに見えてしまったのだった。きらきらした輝きが消えちゃたみたいでさ。