姫野カオルコ『もう私のことはわからないのだけれど』(日経BP社、2009-1)★★★

「赤ちゃんはまだなのって、結婚を祝う気持ちで言っても、辛い気持ちになる人がいる」ってことは有名になったけど、病気になった親のそばにいないってことは、いけないことに、まだ、なってるから。(p.79)

 いいと思わないのになぜするんだ、って訊く人がいるとしたら……。
 それは、恵まれた人よ。


 ケータイの、ああいうサイトにメールしてくる女は、ああいうことが好きだとか、ああいうことがしたくてたまらないんだってしか発想がない人は、恵まれた人。いいと思う時があった人。いいと思う相手がいた人。いいと思う時間が一度でもあった人。(p.108)

「ようこさんの黒豆は、これで、こん家で一番うんまかなりもした」
 この人は褒めてくれましたっけ。
 この家に来て十六年目のお正月から、私の作った黒豆を。ほかにだれもいない台所で。それも世間様向けだって思われますか?(p.127 嫁)「家」に「え」のルビ

介護にかかわっている十三人の、つぶやきのようなもので構成された作品。だから何か物語が動き出す、というものではない。ツイッターになじめない(よく知らない)私なので、つぶやきなんか聞いてられるか、なんだけど、どうかすると反対に惰性でページをめくるのがためらわれるようなことになっていたのだった。

というわけで、個人的メモには十三人それぞれから引用したものを残したが、いざそうしてみると当然のこととはいえ、わざわざ書き残すほどではないかと思われるようなものもあり(それがまた姫野カオルコのうまさか)、というわけで、ここでは少しだけにしておいた。

 葬式の後の三年二ヶ月。この間だけが十代以降初めて、ほんとに初めて「家に病人がいない人」になれて、めちゃ新鮮だった。自分の気持ちが珍しかった。この間だけ、おれ、明るい性格だった。
 だから、喜劇とかお笑いじゃないもの、を見たり読んだりできた。家に病人がいると、笑いたいって欲求が凄まじく強いから。(p.139)「じゃないもの」に傍点ルビ

最後のは、コメノオ・ヒカル(米之尾 光)という人のつぶやき。このコメノオ・ヒカルだけ、略歴の表記と読みが反対になっていて、それは片仮名だからなのかもしれないが、でもこう書いてあるのは姫野カオルコの日本式アナグラムと言ってるようなもので、そこまで明かさなくてもと思わなくはないのだけれど、まあ、いいか。