『ナチュリラ別冊 冷えとりガールのスタイルブック』(主婦と生活社、2010/2012-6)?★

(服)ケガって偶然と思いきや、必然なんですね。冷えとりの「毒出し」は、熱が出たり、湿しんが出たり、下痢をしたりというように、症状で出る場合もあるけれど、ケガで出ることもある。これは、体験しはじめないと、なかなかわかりづらいですが……。(p.91)

巻末近くにあった、進藤幸恵と服部みれいとの対談。

『幸せになる医術 これが本当の「冷えとり」の手引き書』にも書いたことだが、あまりにも奇跡のような事例を並べられると引いてしまうんだよね。ましてや、怪我、ってさ……。


姫野カオルコ『もう私のことはわからないのだけれど』(日経BP社、2009-1)★★★

「赤ちゃんはまだなのって、結婚を祝う気持ちで言っても、辛い気持ちになる人がいる」ってことは有名になったけど、病気になった親のそばにいないってことは、いけないことに、まだ、なってるから。(p.79)

 いいと思わないのになぜするんだ、って訊く人がいるとしたら……。
 それは、恵まれた人よ。


 ケータイの、ああいうサイトにメールしてくる女は、ああいうことが好きだとか、ああいうことがしたくてたまらないんだってしか発想がない人は、恵まれた人。いいと思う時があった人。いいと思う相手がいた人。いいと思う時間が一度でもあった人。(p.108)

「ようこさんの黒豆は、これで、こん家で一番うんまかなりもした」
 この人は褒めてくれましたっけ。
 この家に来て十六年目のお正月から、私の作った黒豆を。ほかにだれもいない台所で。それも世間様向けだって思われますか?(p.127 嫁)「家」に「え」のルビ

介護にかかわっている十三人の、つぶやきのようなもので構成された作品。だから何か物語が動き出す、というものではない。ツイッターになじめない(よく知らない)私なので、つぶやきなんか聞いてられるか、なんだけど、どうかすると反対に惰性でページをめくるのがためらわれるようなことになっていたのだった。

というわけで、個人的メモには十三人それぞれから引用したものを残したが、いざそうしてみると当然のこととはいえ、わざわざ書き残すほどではないかと思われるようなものもあり(それがまた姫野カオルコのうまさか)、というわけで、ここでは少しだけにしておいた。

 葬式の後の三年二ヶ月。この間だけが十代以降初めて、ほんとに初めて「家に病人がいない人」になれて、めちゃ新鮮だった。自分の気持ちが珍しかった。この間だけ、おれ、明るい性格だった。
 だから、喜劇とかお笑いじゃないもの、を見たり読んだりできた。家に病人がいると、笑いたいって欲求が凄まじく強いから。(p.139)「じゃないもの」に傍点ルビ

最後のは、コメノオ・ヒカル(米之尾 光)という人のつぶやき。このコメノオ・ヒカルだけ、略歴の表記と読みが反対になっていて、それは片仮名だからなのかもしれないが、でもこう書いてあるのは姫野カオルコの日本式アナグラムと言ってるようなもので、そこまで明かさなくてもと思わなくはないのだけれど、まあ、いいか。


進藤義晴、進藤幸恵『幸せになる医術 これが本当の「冷えとり」の手引き書』(PHP研究所、2011-1)?★★☆

 病気のほとんどは、食べ過ぎが原因で起こります。ろくに嚙まないで食べると消化吸収が悪く。栄養が十分体に入らない。30分かけてゆっくり食べる暇がない時は、「食事を抜かせ」という合図だと思うこと。
 絶食すると、内蔵の毒がよく出ます。(p.19)「嚙」に「か」のルビ

 私はいろいろな医学を渡り歩いてきました。最後に到達したのが冷えとり医学です。
 東洋医学の古典には、「草根木皮(漢方薬など)、これ小薬」「鍼灸、これ中薬」「飲食衣服、これ大薬」と書かれています。(p.20)「草根木皮」に「そうこんもくひ」のルビ

私自身「冷えとり」(この本に書いてある意味での冷えとり)を本当に信じてよいのかどうかの結論は出ていない。

が、基本的な考え方は大いに共感できる。

 不健康な時は、本能が狂って毒を出す能力が鈍くなっています。しかし、冷えとりをすることで体がだんだん正常になると、排毒作用が強くなります。このため、快方に向かう時に痛みが強くなったり、血が出たり、湿疹が出たり……と、より派手に症状が出ることがあります。こうした好転反応を「瞑眩」と言います。(p.22)「体がだんだん正常になると、排毒作用が強くなります。」は色付きボールド表示

わからないのが、この毒という概念。いや、概念としてはそういうものかと思うのだけれど、説明が抽象的なままなんでね……。

 素直に取り組める人は非常に珍しいのですが、このようにケロリと悟るというか、あまり片意地を張らず、原則をきちんと守って冷えとりをすれば、100%治るのです。すると病院に行かなくてよくなります。医者にかからなくてもよい方法を医者が教えているというのは非常におもしろい話ですが、医者をいらなくすることが、本当の医者の役目だと私は思うのです。(p.27)

「素直に取り組め」ば「100%治る」んだ。それだけ自信があるから、鼓膜の再生(p.4)も腎機能の快復(人工透析からの解放)(p.5)も、さらには肝臓癌の末期の人(p.26)や赤ん坊の頭より大きな子宮筋腫に、卵巣まで再生(p.29)してしまうのだと書いているのだろう。「アトピー性皮膚炎は難病のうちに入らず」(p.59)だもの。

だけどさぁ……。

ここで私の意見を述べても仕方がないのだが、基本的には人間の体は自然にしているのが一番ではないかと思っている。それで大丈夫なように人間も進化してきたはずなのだ(もっとも進化がすべて良い方向かというとそうではなのだが)。

そう考えると「冷えとり」(「冷え性」とは違うと言ってます)のため、一年を通して靴下を重ね履きするのはどうなのかと。頭寒足熱には賛成するが、夏場だったら頭を冷やすのがより合理的と思ってしまうの。

といいつつ、次女の熱心な勧めもあって多少ながら「冷えとり」実行中の私なのだった(冷たいものは控えるという状況までにはなっていない。これは西原医学も言ってたことなんだが)。何故その気になったかといえば、手軽でお金がかからないという私らしい理由なのだった。

ところで、この本には次のような記述もあった。

冷酷――自分に都合のよいことだけを考える心の冷たさが冷酷です。他人に対して思いやりがない人は、心臓や血管系統が悪くなりやすいです。心筋内でうまくカルシウムイオンが働かず、代謝異常を起こしてしまうため、腎臓、尿管、唾液腺や胆のうなどに結石ができます。しかし、心筋の異常はよほど重症にならないと心電図などの数値に出てきません。結石を手術で除去しても繰り返し出てくるような人は、冷酷な心で心臓を悪くしていないかどうか反省が必要です。(p.74)

実は私、とんでもない結石持ちで、昨年には膀胱から3センチ近い大きさの卵を摘出したのだった。あと、歯石もすぐ溜まってしまうし(体質とは昔の担当医)、そういえば近年は減っているが、たまに心臓が痛くなるし、血管が変だと大騒ぎしたこともあったっけ……。

で、冷酷なのよ。

半信半疑ながら微妙に痛いところを突かれちゃてるなぁ、と。


内田聖子『あなたのようないい女』(日本文学館、2010-1)★★☆

「明星」は金食い虫で、鉄幹は惚れっぽい男であった。
 しかし、そんな夫への嫉妬、憎悪の念が、彼女の情念となって独自の歌境を深めていく。晶子は、鉄幹なしでは歌をよむことも、子供を産むこともできないのであった。その点で、晶子のいない鉄幹は存在しうるが、鉄幹のいない晶子は考えられない。(p.116)

景山英子、清水豊子(紫琴)、樋口一葉与謝野晶子川上貞奴松井須磨子の六人を「いい女」として俎上に上げた評伝。一葉、晶子以外はほとんど知らないに等しかったから勉強になった。

序では清少納言紫式部(それぞれが仕えた中宮定子と彰子)にも触れている。この序は前著『清少納言 紫式部 王朝イヌ派女VSネコ派女』(未読)のおさらいでもあるようだ。

キレのいい文体と要所を的確に切り取っている評伝は面白く、一気に読めてしまうが、何故「いい女」や「王朝イヌ派女VSネコ派女」をキーワードにしなくてはならなかったのか。営業のためにしても、私にはこれが残念でならない。

 定子も彰子も庶民にはほど遠い高貴な地位にありながら、生き方はなんと人間的なのだろう。権力者におもねる平安貴族の世界、権謀術数のうずまく男たちの集団は現代の社会の比ではない。そのなかで知性、品格、感性、ともにすぐれ、優しさを失わず、自分の意見を持って生きた定子と、彰子はほんとうに“いい女”であった。
 現代でも思いやりや恥じらいを持って、自分らしくイキイキと生きるあなたは“いい女”なのである。(p.17)

こんなふうに無理矢理「いい女」でくくらなくても、と思ってしまうからなのだ。この際だから、こういうくくりのようなことは一切やめて、歴史に埋もれてしまいそうな女性たちを片っ端から評伝しまくってくれないものか。


姫野カオルコ『終業式』(角川文庫、H16-1、解説:藤田香織)★★★☆

まだ二冊目だが、姫野カオルコ中毒になりそう。というほどには何もわかっていないのだけど。ま、それは解説の藤田香織も言ってることで、要するにお楽しみが沢山残っていることなのかと……。

 この物語は、これまでの著者の作品の中で、一番「普通」の話です。軽はずみに「普通」という言葉を使うのもどうかと思いますが、それでもあえて繰り返したいほど「普通」。(p.345 藤田香織

もっとも「主人公は高校2年の八木悦子」(p.345 藤田香織)としてるのは、どうなんだろ。確かに出てくる人間の一番中心は八木悦子ではあるが、私的には遠藤優子が断然主人公なのだった。というか、そういうのは読者にまかす、と最初に書いてあったのだった。

この本では、登場人物が何をしたのか、どこで何があったのか、すべてが手紙のなかに秘められています。それを解くのは読者です。手紙やメモ、FAXの一つ一つにどのような想いが託されているのか、感じとるのも読者のあなた自身です。

引用したい箇所はいくつもあって、例によって自分用のメモにはしこたま書き出してしまったのだけれど、今はその遠藤優子をめぐるいくつかを……。

 いつもそうなの。
 きみはそうして、私も明るくさせる。悩みごとをグチるために会っていてさえも。
 いつもそうなの。
 きみはそうして、私を救う。私は自分でさえも気づかなかった自分の陽気な部分を、きみに引き出される。視界がクリアーになってすっごくたのしくなる。
 たのしくなるよ。だからきみはもう、やさしくしないで。もっとたのしくなることにきみが怯えるのなら、もうやさしくしないで。きみの代用を探して暮らす生活にも、限度ってもんがあるんだから。
 私があんなことをしたのは、それはきみのせいだよ、って言えないよ。そしたら、きみはまた私を恐れるだろうから。
 きみは女が男に求めることは、ユビワとか結婚とか、もうすこしリリカルに表現するなら、すてきなお食事とか甘ったるく肩を抱くこととか「一人だけを愛する」と言ったり自分の肝に銘じたりすることとか、そうしたことだけだと思ってる。
 きみの持ってる女のデータから、そう判断する。それはしかたのないことだし、そうした希望を抱く女の人もちっとも悪いと思わないけれど、私がきみに求めるものは、ぜんぜんちがう、もっともっとワイド画面な関係で、それでもアガペーではなくエロスであるということ、きみはわからなくて、きみはいつも、ただ私を励ます。いつもそうなの。そうして、私はきみと会うと黙ってなくちゃなんなくなる。
 それがいいなら黙ってるけど、黙ってるときみが遠い遠いところにいるんだなってよくわかる。トーゼンなんだよ。きみはうんと遠くにしかいないんだからさ。じゃあさよなら。(p.201)「怯」に「おび」、「肝」に「きも」、「銘」に「めい」のルビ。

 俺は、昨夜、うまく言えなかったけど、昨夜の今日で、ちょっと二日酔いで迎え酒をしてしまって、ぐったりしてるから、思い切って書くけど、遠藤のこと、ずっと好きだった。ただ、いわゆる「好き」というのとは違って、複雑なかんじの「好き」だった。だから、無責任に「好きだ」って言えなくて、言わないことにしてた。八木のこともあったし、よけい言えなかった。八木と天秤にかけて、っていう意味での「好き」ではなくて、うまく説明できなかったし、今もうまく説明できないけど、世の中の「好き」というのとは一種ちがうかんじで「好き」だった。それでいて、友情というのとは違って、ほんとに今だから言うけど、女として好きだった。それは自分でわかってたけど、口にしたり行動で表現したりすると無責任になるようにしか思われなくて、言えなかった。心から幸せを祈る。遠藤ならきっと最高の奥さんになるよ。(p.306)「天秤」に「てんびん」のルビ

 卒業式の日、図書館のわきの階段のところでたづるちゃんが泣いていた。修二くんが東京に行くから。あとで聞いた話だが、彼らは長寿山で初キスをしたらしい。そんなことをしてた人もいたのか……。私なんかイヤってほどラブシーンを書いたが実際にキスをしたのなんか、ほとんど最近なのに。(p.341)

最後のこれはあとがきだが、他のと同じように「手紙として」おかれている(「あとがきにかえて 姫野カオルコ」とある)。こんなことされると余計な勘ぐりを入れたくなるのだが、姫野カオルコを知らない私には無理なのだった(白状しておくと、姫野カオルコなんて名前を付けるヤツを私は信用してなかったのだ。名前で判断なんてね)。


百田尚樹『風の中のマリア』(講談社文庫、2011-1、解説:養老孟司)

★★☆

 オオスズメバチは、幼虫時代は肉食だが、成虫になると逆に肉などの固形物は一切食べられなくなる。そのため樹液や花蜜が食物となるが、最高の栄養源は幼虫の出す唾液だった。そこには特殊なアミノ酸化合物が含まれていて、これのお陰でオオスズメバチのワーカーは体内の脂肪を直接燃やしてエネルギーに変換することができる。人間を含むほとんどの生物は脂肪を燃やす場合、いったんグリセリンに変えてから分解してエネルギーに変換するが、この時、乳酸が発生し、筋肉疲労をひきおこす。しかし脂肪を直接燃やすことのできるオオスズメバチは、体内に乳酸を発生させないので、どれほど運動してもほとんど筋肉疲労を起こさない。オオスズメバチが一日に百キロ以上も飛べる驚異的な運動量を誇る秘密はそこにある。(p.26)

なにしろ性決定システムやゲノム共有率の図解まであるのだ(巻末には補足資料としての解説も)。小説になっているとはいえオオスズメバチ解説書と割り切ってしまってもいいくらいのデキなのである。

逆に言うと、これが弱点だろうか。例えば、キイロスズメバチとの死闘では、巣攻撃の綿密な攻撃態勢をワーカーたちで相談するのだが、最初の、主人公マリアの妹(あとから生まれたのは全部妹なんだが)エルザの出撃は、まるで初めての場所を偵察するかのような形をとっている。

生態学的にはいきなり大挙としては襲いかからないのだろう。相談内容とは噛み合わなくなっても、マリアが「エルザの出すエサ場マークフェロモン」を捉える場面が必要なのだ。

 マリアがエリザベトから栄養補給を受けている間、襲ってくるキイロスズメバチは他のオオスズメバチが追い払った。
 友軍の仲間たちは続けて他の戦士たちにも同じように甘露を口移しで与えていった。この行動はマリアにとっても他の仲間たちにとっても初めてのことだった。しかしまるでこの日のことが約束されていたかのように、マリアたちはこの補給作戦をスムーズに行うことができた。おそらくマリアたち戦士の本能の中に、この戦いのメカニズムが組み込まれていたのだろう。だとすれば、このキイロスズメバチとの戦いもはるか昔に約束されていたことなのだ。(p.253)

「はるか昔の約束」を反故にするわけにはいかないのは作者もだからね。

だから「恋」という章立てはあっても、それはあまりに些細なことで、とても恋とはいえず、でもだからこそ余計胸に突き刺さるのではあるが……(この部分はあえて引用しない)。

「恥を知りなさい! この悪辣な侵略者たち!」
 女王を守っていたワーカーたちが一斉に向かってきたが、マリアの後ろからやって来たドロテアが前に躍り出て、たちどころにワーカーたちを噛み殺した。そして女王バチに襲いかかり、その胴体を真っ二つに引き裂いた。三万頭ものワーカーを率いていた女王バチはあっけなく死んだ。(p.195)「悪辣」に「あくらつ」のルビ

オオスズメバチがミツバチの巣を襲う動画は前に見たことがあるが、まさに「悪辣な侵略者たち」そのもの、だった。まあ、最初からそういう生き物を主人公にしているのだけどね(このことだけでもすごい)。

 帝国から巣立っていったオスバチは三百頭近かったが、はたして何頭のオスが若い女王バチとめぐり逢い、その血を未来に残すことができるのだろうか。それが叶わない弟たちは哀れだと思った。
 ふと、ヴェーヴァルトのことを思い出した。本当に哀れなのはヴェーヴァルトだと思った。彼には最初からチャンスが与えられていなかった。運命と戦う機会さえ与えられなかったのだ。(p.275)

昆虫の数え方は、学術的に「頭」で統一されているんだってね。今識ったよ。識らないことだらけなので、本人は驚かないが、この歳になって今さら「頭」を使うとなると、抵抗があるんだな。言葉というのは、このあたりが難しくってへんてこりんに面白いところではあるんだが。この本には当然のことなのか、「頭」の説明などなかったので、わざと「頭」にしているのかと、で、だとしたら何で、などと考えてしまった私なのだった(よか、識らないことに驚けよ!)。

ヴェーヴァルトはマリアの恋の相手で、この恋については引用しないと書いたが、これはマリアの回想の一部ってことで……。頭についてだけなら、ここまで引かなくてもよかったんだが、まあ、ヴェーヴァルトに同情したんでね。


有川浩『ラブコメ今昔』(角川書店、H20-1)

★★☆

『ラブコメ今昔』『軍事とオタクと彼』『広報官、走る!』『青い衝撃』『秘め事』『ダンディ・ライオン〜またはラブコメ今昔イマドキ編』の6篇からなる短篇集。

 誰か一人でも気づいてくれたら。その思いを拾ったのがまさか−−防大出エリートというだけで叩き上げには気にくわないこの女だなんて。
「『ダンディ・ライオン』にも総火演の展示のときと同じ思いを感じました。もし、あの写真に籠められている思いがあるとしたら−−」
 言うな。
 もし、この女が言い当てたら−−言い当てたら、俺は一体、
「『不屈』かなって」
 畜生。やみくもに反発を覚えた。
「俺は『ダンディ・ライオン』には副題を付けていません。勝手な想像をされるのは迷惑です」
 自分でもやばいと思った。階級がという以前に相手は女だ、きつすぎた。(p.254)「籠」に「こ」のルビ

こう続けちゃったらファンでもなければ飽きが来てもおかしくないだろう。事実その通りで、有川浩らしい仕掛けは感じながらも多少もてあましていた……って、いやまぁ、白状すると、それなりに楽しんじゃってたか……。