渡辺京二『黒船前夜 ロシア・アイヌ・日本の三国志』★★★★☆(洋泉社、2010-1)

刊行されて二年以上も経っているというのに買った本はまだ「初版」だった。こんな素晴らしい本(ただし索引がないのはいただけない)がと思うが、やはり小説ほどには売れないのだろう(って、私とて手を伸ばすのは三文小説ばかりだからなぁ)。 翻って考えれ…

「次の10年を想像してほしい。現在16歳以下の子供たちが、世界を変えていく時代に入っていく」。米ガートナー、リサーチ部門最高責任者のピーター・ソンダーガード氏は、これから起きる大きな変革の波について予言する。「16歳以下の子供たちのことを、ITを慣れ親しんだ『デジタル・ネイティブ』と定義。今、この会場にいる聴講者たち、ITについて勉強しようと努力している人たちを『デジタル・イミグレイト』と定義する。少し意地悪かもしれませんが」と、ソンダーガード氏は新時代の人類を定義した。

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20061025/251769/ ITpro2006年10月25日「デジタル・ネイティブを意識したIT戦略が急務に」、米ガートナー リサーチ部門最高責任者のピーター・ソンダーガード氏(署名記事:渡辺一正=日経コンピュータ)10日のNHK…

ところで、「うんともすんとも」の語源として、「ウン」は「一」、「スン」は「最高点」を意味するウンスンカルタに由来するという説を先に紹介したが、実際のウンスンカルタで「ウン」は「一」ではなく「絵札」だった。さてこれはどうしたものかと困惑したが、子供たちの様子を見ていて答えを見つけた。カードゲームは、手札に一喜一憂していたら勝負にならない。自分の手の中に「ウン」や「スン」といった強力なカードがあるのかないのかを敵に悟られないように、「ウンともスンとも」言わず、ポーカーフェイスをつらぬくこと、これが勝利の秘訣だ

本が好き!(光文社)2008年11月号、p.64 わぐりたかし「連載第十八回 見てきてさわる語源の旅 うんともすんとも/熊本県」http://www.kyuhaku.jp/museum/museum_info04-07.html ウンスンカルタについてはこちらをどうぞ。別にここじゃなくてもいいんだけど…

ふと、自分がこの小説を、体で読んでいたのだと気づく。そこに連なっている文字に、全身が刺激されて、その刺激が体を伝わって心まで解放されたような感覚を味わっていた。愛の痛みとか苦しみを想像しながら、体感もしていたのだ。マンガ的なのか、小説的なのかは、よく分からない(というか、もはやどうでもいい)けれど、それは、何というかとてもエロティックで、幸せな読書体験だった。そして、物語の中で味わった愛の深味はせつなくて苦しくて汚くもあり、とってもさみしいけれど、それも含めて何だか忘れがたく、美味しく感じられた。

星星峡(幻冬舎)2008年9月号、p.95 芳麗「心だけでなく、体ごと持って行かれた。」(渡辺やよい『ピーター・ノースの祝福』の書評)体感とはすごい絶賛だけど、渡辺やよい、知らない(芳麗も)。レディコミ(多分、読んだことがない)でエロティックなマン…

このように考えていくとアフィリエイトは、釣りと似ているかもしれません。

魚が釣れる「ポイント」というものがまずあります。一箇所だけ、魚もいないところに糸をたらしていても、哲学は生まれるかもしれないけど、魚は釣れません。また同時に、ターゲット、つまり魚自体も常に動いています。 和田亜希子『ホームページが楽しくなる…

しかし、この類的存在としての人間の解放という理念には、その底に、いかにも北的な重要なモチーフがかくされていた。それは人間は、共同的なものであるべきだという要求で、これこそ彼がおのれを社会主義者とみなした理由の根本であると同時に、彼がのちに擬ファシスト的な転落をたどらねばならなかった、秘密の核心にほかならなかった。

渡辺京二『北一輝』(朝日選書278、1985年、p.107)昨日の勉強会(最近出席率があまりよろしくない)で取り上げられた本。内容の濃い本だから油断するつもりはなかったが、前に1度読んでいるという気のゆるみがどこかにあったらしく、2度目もあえなく沈没し…

――昔の梅干しはかなり塩辛く、その面には塩がふき出ていたように覚えます。お茶受けには、こんもりと砂糖を振り掛けました。

又、お弁当には、必ず真ん中にそれを隠すように入れました。それでもアルミの蓋のその部分に、穴が開くのは常識でした。若い日の懐かしく、忘れ得ぬ思い出です。 月刊ずいひつ平成二十年六月号、p.13 渡辺通枝「梅干し」引用はしたけれど、私の記憶に重なる…