小栗左多里『プチ修行』★★☆(幻冬舎文庫、H19/H22-3)

 修行の途中、座禅を組みに行ったお寺で気がついたことがある。お寺にいる人が誰一人、幸せそうな顔なんてしていないのだ。長年修行している人も、幸せどころか世界中の不幸をしょって立っているみたいな感じである。どう考えてもその辺で犬を散歩させている人の方が幸せそうだ。
 しかしその犬が死んだ時、飼い主は多いに嘆き悲しむだろうけど、修行者は「命はいつか終わる」と冷静に受け止められるかもしれない。修行をしていくと、そうやって「心の波」が振れなくなっていくのだろうと思う。
 それは、幸せなのか。
 私は修行をしていくうちに、ある言葉を思い出した。
「幸せとは、心の強さのことである」
 これこそが、真実なのかもしれない。貧乏だったり辛い状況であっても「幸せだ」と笑っていられる人もいれば、お金持ちでも満たされないまま生涯を過ごす人もいる。
 結局、「幸せ」とは条件ではなく、どのような場所にいてもそれを「幸せだと思えるかどうか」だけにかかっている。
「幸せだと思えるか」は言い換えれば「感謝できるか」だと思う。「感謝する心」、つまりそれが実は「強い心」であり「足りない何か」なのではないかなあと。私は思ったのでした。(p.252)

まだ続くのだけれど……。

「たぶん、幸せじゃないと感じる瞬間があるから」修行をするのだと、小栗左多里は「はじめに」に書いている。え、そんなことが修行に結びつくかなぁ? というか、修行は私、きっとしないと思う。何かの練習ならするだろうけど(修行の練習ならする?)。

だったらこんな本は読まないでしょ(読むのは修行の練習だったり?)。ま、そうなのだけど、ブックオフの105円本だったので、つい他の本の中に紛れ込ませていたのだった。

とはいえ、ねぇ。……修行じゃなくてプチ修行だったからかなぁ。自分には絶対関係ないことがお手軽体験できるとでも思ったのかしら(すでにその時の心境すら謎)。

というわけで、内容に関係ないコメントで、ごめん。だいたい私って幸せについてこんなに沢山考えられないんだもの。それだけで何だか感心してしまったんである。

ただし−−結局、「幸せ」とは条件ではなく、どのような場所にいてもそれを「幸せだと思えるかどうか」だけにかかっている−−と言われてしまうと、そうかなと思う半面、幸せがえらくつまらないものに見えてしまったのだった。きらきらした輝きが消えちゃたみたいでさ。


高島俊男『座右の名文 ぼくの好きな十人の文章家』★★★(文春新書570、2007-1)

この本の成り立ちがまえがきに書いてある。『本の雑誌』に書いた短文がきっかけでできたのだそうだ。そして、その短文も掲載されている。で、これが滅法面白い。

 小生が、最も相性がいいと感じるのは斎藤茂吉である。つねに文章が正直で、鈍重でありながら爽快である。そしてしばしば間がぬけている。これは、意識してそういう効果をねらっているのか、それとも天性間がぬけているのか。両方まじっているのであろう。(p.9)

ね。ま、簡潔故の魅力ということもあるが。

もちろん本文だっておもしろい。だから高島が好きな十人「新井白石本居宣長森鴎外内藤湖南夏目漱石幸田露伴津田左右吉柳田國男寺田寅彦斎藤茂吉(生年順)」(p.8)にそって一文ずつ引用するつもりでいたのだが、実は、好きな文章家という体裁を借りて高島はあることを繰り返し述べているのである。というわけで、今回はそこに絞って拾ってみた……。

 白石はたくさんの著述をのこしたが、白石の書いたものには、あるはっきりとした特徴がみられる。というのは、なんべんも言うように学問といえば支那の学問のことなのだから、学者の著述は「支那の古典について支那語で書く」ものにきまっていた。白石と同時代学者である荻生徂徠伊藤仁斎も、そういうかたちで著述をのこしている。これに対して白石のものは、そのほとんどが日本のことを書いている。しかもまた、それを日本語で書いている、というのが大きな特色である。さきにあげた『読史餘論』も『藩翰譜』もその例だ。
 日本のことばが学問の対象になるなどとは、その時代、あるいはそれまでの日本人にとってはまず奇抜な考えだった。日本語が学問を記述することばとして使えるということ、日本語で書いたものが学問的著述になるということも、だれにも思いつかないことだった。新井白石は、学者でありながら日本のことを日本語で書いたいう、まことに画期的なことをした人物なのだ。(p.32)

 まあ、日本というのはそんな国ではある。明治以降は今度は欧米のことを知る人が尊敬された。イギリスやアメリカの知識がある、あるいはあちらのことばがしゃべれる、という人がうやまわれる。日本のことなんか知らんといえば、いやさすがに学者だ、えらい、ともてはやされた。おんなじことだ。日本人はずっとむかしからいまにいたるまで、「価値あるものは日本のそとにある」と考えている。それが、江戸時代の末までは支那であり、明治のはじめからは西洋にかわった。これに対して異議をとなえ、日本のなかに価値をもとめ、それを至上のものと考えたのが、本居宣長だった。(p.45)

「京都の支那学」は、「東京の漢学」にくらべるとはるかに健全なものだ。真に学問の名に値するものではあるが、対象を客観的にみるものだから、ちっとも支那を尊敬しない。尊敬する必要はもちろんないが、尊敬しなかった結果、「支配してもかまわない」ということになった。(p.86)

 明治というのはなにしろへんてこりんな時代で、なんでも西洋人のものさしで判断した。自分の判断に自信がもてないというよりも、日本人の価値基準そのものが全部ほろびちゃったといったほうがいい。いまになってみると、明治人の気骨などと言う人がいるけれども、どうも明治時代というのは、とくに前半は、非常に軽佻浮薄な時代であったとぼくは思っている。(p.140)

 論語に対してだけでなく、支那思想全般への敬意をもたないところが、津田左右吉の特徴でもあり、ぼくがすきなところでもある
 支那人の思想は支那人の生活から生まれてきたものであって、生活基盤がちがう日本人にはなんのゆかりもないものである、と左右吉は考えた。これもた、たいへんユニークです。
 ぼくが生涯最大の影響をうけた本、『支那思想と日本』にもこの思想がつらぬかれている。昭和十三年、岩波新書の創刊時の一冊で、当時の時流−−日本における支那思想の影響を大きく見つもる−−に反対する立場から出版されたものだ。ぼくはこれを大学生のときに読み、ひっくりかえるほどの衝撃をうけた。
 そもそもぼくが中国文学科に進んだのは、漢文にしたしんだことから、支那をなんとなくしたしい国、日本と共通する文化をもった国と思っていたことによる。この本は、そんな漠然とした甘い親近感を粉々にうちくだいた。多くのことをおしえてくれた本だが、とりわけ「支那と日本は別々の歴史と文化をもった、ちがう国である」ということ、そして「支那思想をありがたがるのはばからしい」ということ、この二点を叩きこんでくれた。「まへがき」から、本人が書いたこの本の要約を引く。
(略)
 津田左右吉はここでも書いているように、「東洋文化」の存在を否定する。このあたり、内藤湖南とは正反対だ。支那文化の影響を極力大きくとらえようとしたのが湖南なら、左右吉はそれをできるだけ小さく考えようとした。ぼくは二人の大学者をともにこのうえなく尊敬するが、こういう見解の相違については「どちらが絶対に正しい」ともきめがたく、なかなかに困った問題なのである。(p.143)

左右吉の文の引用部分は孫引きにもなるし、なくても通じるので省略した。


三浦しをん『神去なあなあ日常』★★☆(徳間書店、2009-6)

 彼らの口癖は「なあなあ」で、これはだれかに呼びかけているのでも、なあなあで済ませようと言っているのでもない。「ゆっくり行こう」「まあ落ち着け」ってニュアンスだ。そこからさらに拡大して、「のどかで過ごしやすい、いい天気ですね」という意味まで、この一言で済ませちゃったりする。(p.6)

奥付の手前に「The easy life in KAMUSARI by Shion Miura」とあるのだけれど、そうか、『イージー・ライダー』って、『なあなあライダー』なんだ。

 生まれ育った横浜を離れ、神去村の神去地区に住むようになって、そろそろ一年が経つ。この一年にあったことを、書き留めておこうと思い立った。神去の暮らしは、俺の目にはめずらしいものに見える。なによりも住人がおかしい。おっとりしているようで、静かに破壊的言動を取ったりする。
 今後もうまくやっていけるのかどうか、それはまだわからないけれど、とにかく書いてみる。ヨキの家で埃をかぶってたパソコン、電源入れたらちゃんと動いたし。でも、ネットには接続されてないんだよなあ。ヨキは家では黒ジコ電話を使ってるし(俺、村に来てはじめて実物見た)、第一、どの部屋にもケーブルの差し込み口自体が存在しない。こんな状態で、なんでパソコンだけ買ったんだろ。好奇心かな。買ったはいいけど説明書を読むのが面倒になって、放置していたにちがいない。(p.8)「埃」に「ほこり」のルビ

「静かに破壊的言動」っていうのがね。うはは。

引用は最初の段落だけのつもりだったが、「黒ジコ電話」というのが気になって。多分あれでしょ、昔の……。でも「黒ジコ電話」っていうの? 「ジコ」って? ジーコジーコっていうから? 単に黒電話か、もしくはダイヤル式電話じゃないのかしらん。

 春が近づいてから降る雪は湿って重い。
 夜、布団のなかにいても、山の木が折れる音が聞こえてくる。パキン、パキンと、呆気ないほど鋭く澄んだ音をこだまさせるんだ。
 それを耳にすると、たまらない気持ちになる。いますぐ山へ飛んでいって、若木を雪起こししてやんなきゃ。そんな、居ても立ってもいられない気持ちになる。
 同時に、哀しくもなってくる。だって山には、数えきれないほどの木が植林されている。俺のもたついた作業ぶりじゃ、雪の重みにひしゃげた若木をすべて起こすことなんて、何年かかったってできそうにない。(p.34)「呆気」に「あっけ」のルビ

いやー、心配することなんて何もないじゃん。このあんちゃん最初っから山が好きなんだもん。

 俺を呼ぶのは、山じゃない。直紀さんの姿だ。いや、もしかしたら俺にとっては、直紀さんこそが山なのかもしれなかった。(p.191)

本人は否定してるし、そりゃ直紀さんの存在の方が大きいのはわかるけど。ってことで、以下略。

辻村深月『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ』★★☆(講談社、2009-5)

結婚することが人生の前提にあり、未来に能力を繋げる仕事なんか望みもしない。経済的にも精神的にも一人立ちできない女たちにとって、結婚は間違いなく唯一の成果だった。その価値観しかないから、三十代以上夫なし子供なしの女性を指す「負け犬」の言葉は、本来の意味を離れてここで受け止められた。私の周辺の多くが、傷ついたようにやがて来る三十代の陰にますます怯える結果になった。(p.119)

幼馴染みの起こした母親殺害という異常な事件を追うみずほ。謎めいた進行なのは、彼女がライターであって、そういう目的はあるのかないのか、ということもちらちらしはするのだけれど、次第にみずほ自身の立ち位置(友人関係のみならず母子関係まで)が浮かび上がってくる構成は悪くない。

が、こういう関係性に首を突っ込むのがどうにも苦手な私には荷の重い小説だった。赤ちゃんポストのことも含めて、先がなかなか見えてこなかった(考えずにページをめくっていった私も悪いのだが)こともあり、少々苛ついて読んでいた。

山梨を離れてみて、あの頃を回想して思う。私は確かに彼女たちと自分を違うと思っていたが、私はその実そう思っていることまで含めてあの場所ではっきりと浮いていた。どれだけ私が溶け込んでみんなとうまくやろうとしても、彼女たちの方でそえを許さなかっただろう。望んだところでどうにもできないひずみ。その意味で、私と彼女たちを繋ぎ、あの場に私をすんなりと座らせていたのは、チエミの存在なのだ。
 私と違う彼女たち。確かに共感しきれなかったし、疎遠になってしまったけど、私は政美のことも、果歩のことも、飲み会も好きだった。楽しかった。だから行った。チエミの力を借りて。(p.110)

もっとも考えてみると、これの前に読んだ姫野カオルコの『ツ、イ、ラ、ク』だって、関係性という部分では似たようなほじくり方をしていたはず。が、あっちがもっと群像劇のようでもあるからか、突き放したものだったのに、こちらはあくまでみずほ視点(第一章)なので、彼女の望みや後悔が出て来てしまうからだろうか、気が重くなってしまうのである。

チエを鏡にしないで、という声は、本当に発したものなのか、それとも私が心の中でだけ吐露した声なのか、わからなかった。
 けれど、亜里紗が顔を上げて、私を見た。
「チエの中に、自分を反射して見ないで」
 愛される娘も。決断できない娘も。
 誰もみな、そこに自分を見るから、チエミを放っておけない。誰より一番、私がそうだ。
 普通、普通、普通。
 その枠を外れる異常。あなたの家は、異常である。
 だけど、その普通に正解はあるのか。それはあなたの願望が反映されていないだろうか。普通じゃない、と断じられたチエミに教えたかった。どの普通にも、正解はない。(p.246)

そうした中では、この亜里紗とのやりとりは、まあ冷静に読めたように思う。みずほは亜里紗を咎めているが(亜里紗もか)、私には、亜里紗の言い分にそう瑕疵は認められなかった。むろん、これをチエミの視点で語ると別物になるのは(第二章)そんなものだろうとは思うのだが。

 誰かに、見つけて欲しかった。
 望月チエミに戻りたかった。

 どうして、大地じゃなきゃダメなの。
 みずほちゃんから、聞かれたことがある。
 もっと、チエなら他にいくらでもいい人がいるよ。
 −−どうして、大地じゃなきゃダメなの。

 わからないわけがないと思う。私は答えに詰まっていたけど、それは答えられなかったのではなくて、答えたくなかったからだ。
 私には、他にも、いい人がいる。
 だけど、そのいい人は、私を選ぶような、そういう人だと、私にはわかってた。
 みずほちゃん。
 大地くんを選んだのは、大地くんがみずほちゃんの友達だからだよ。
 みずほちゃんと同じ匂いがする、私には、これを逃したら絶対に出会えない、そういう人だからだよ。
 あなたにはそれが、わからないはずないと思う。(p.358)

え、なに、そういうことなの? ま、よくわからないくらいだから私向きじゃないってことなんだろうけどさ。

あと、妊娠していなかった、というのもちょっとね(これまた騙されただけなんだが)。だって、

赤ちゃんポスト、もうないよ。ここに逃げてきた意味、もう、ないじゃん」
「知ってる」
「意味なくなっちゃったんなら、せめてうちにいなよ」(p.356)

という翠とチエミの会話があるのにさ。チエミの外見も翠は疑わなかったわけで(疑問に思っていないということは)、なんだかなー、と思ってしまったのだった。目立たない場合もあるらしいが、だったらそのことには触れておかないと。

私が「負け犬」とか「都会と田舎」というような観点も含めて読み込めたなら、もう少し違った見方もできたかもしれない。


姫野カオルコ『ツ、イ、ラ、ク』(角川文庫14581、H19-2、解説:斎藤美奈子)★★★★☆

どう書き残しておけばよいのか……まとまりがつかないので、いきなりハイライトシーンを。なんで、本書を未読の人は絶対に読むべからず。ここに至るには、遠回りにも感じられる小学生時代の記述からすべてを頭に入れておかなければならない(と、私が言うことではないが)。

 それは河村と同じイニシアルでもある。隼子はソックスをおろし、足首に鎖を巻きつける。
「律儀なことだな。奴隷の足枷をしてる気分がしないか?」
 上から投げた皮肉に、女の頭は下を向いたままだ。鎖の小さな鉤を小さな穴にはめるために頭が足首にぐっと近づく。
「はめてやろうか?」
 いつも斜めにかまえているのが憎たらしい、すこしはオタオタしたらどうだとつい口をついて出た。かなり猥褻なしゃれだった。しゃがんだままの姿勢で、女は視線のみを上に向けた。
「ええ、いつ?」
 腹が立った。こいつは自分を軽んじている。たかが十四歳が。
 生きてゆく人間というものは二十三歳ののちに四十三歳になって知る。二十三歳の自分はなんと若く、熱を帯びていたのだろうかと。しかし、やがて五十三歳になって知る。もし自分が今、四十三歳ならなににでも新たな挑戦ができたのにと。そして六十三歳になり、さらに知る。五十三歳の自分は、三十三歳と変わらぬほどに、なんと若かったのだろうかと。
 女を見下ろす男は、たかが二十三歳であった。動じるな。たかがこんなやつではないか。さらに冗談で返す余裕を見せろ。河村は上から返した。
「じゃ、今日」
 うまく返せたと青年は満足したが、どうとでも受け取れる巧妙を、隼子は、自分がしても他者には許さなかった。ソックスをあげ、アンクレットを隠して立った。
「夜、十時半。長命東駅に行くんです。雨がひどいので家から駅まで車で送ってくれますか。新朝日町の、雑木林のポストの前で待ってる」
 そう言って準備室を出た。がらがらと音をたてて戸を閉めた。(p.261)「足枷」に「あしかせ」、「鉤」に「かぎ」、「猥褻」に「わいせつ」のルビ

きっかけや過程はどうあれ、二人は恋をし、そしてそれが誠に純なのである。姫野カオルコが人間の本質に迫ろうとしないわけがなく、であればそれは純と呼べるようなものからは遠くなるしかないのだけれど、そして実際げんなりしてしまうような言葉の羅列に置きかえられてしまうのだが、二人の思いはどうにも切なくかつ美しいのだった。

 恋とは、するものではない。恋とは、落ちるものだ。どさっと穴に落ちるようなものだ。御誠実で御清潔で御立派で御経済力があるからしてみても、あるいは御危険で御多淫で御怠惰で御ルックスが麗しいからしてみても、それは穴に入ってみたのであって、落ちたのではない。「アッ」。恋に落ちるとは、この「アッ」である。こんなことはめったにないのである。めずらしく落ちても、かたほうだけが落ちているだけで、その人間を落とした相手は落ちていないことが多い。ふたりして「アッ」と落ちるなどということはまずあるものではない。ルーレット一点賭けなどおよびもつかない低い確率である。五台のルーレット台で一点賭けして、五台ともアタルくらいの確率。(p.427)「多淫」に「たいん」、最初の「賭」に「か」のルビ

本当に引用したかったのは、ここではなかったのだが、一応『ツ、イ、ラ、ク』を説明している部分なので……。姫野カオルコは名文も美文も求めてないのだな。どころか、そんなのは糞喰らえで、って、これはまた別の感想だけど(あくまで私の感想で、本人がどう思っているかはむろん知らない)。

今回はこれでもか、というくらい本から引き写している(例によって全部は紹介しないが)。。直接本に書き込んでしまった方がいいに決まっているのだけれど、ま、私にはこれも勉強なんで。

というわけでもう一つだけ、気になる登場人物についてのものを……。

 内面の美という呪文を、心ある人間ならば嫌悪すべきだ。こんな呪文は広告代理店が女性消費者に向けたおためごかしだ。小山内先生は閉経が近いだろうし、染めているが髪の五割は白髪だろうし、乳房はあきらかに京美より小さく、たるんでいる。彼女には商品価値はもうない。洗い髪を梳く小山内先生に、色香がたちのぼるのは、彼女がそのことを熟知しているからである。牡にとって自分は“おばあちゃん”であることを熟知して、かつ牝であることを放棄していないからである。だから浅ましさも焦りもない。色気ではなく色香は、年齢には関係がない。
 ベストスリーのひとり、たとえば木内みなみが、現在ではなく、小山内先生と同じ年になったときに、洗い髪を梳けば、小山内先生と同じくらい色香がたちのぼるか。内面の美とは、小山内先生くらいの年齢になって、はじめて問題にされるべきことである。
 だが、優雅なこの美少女の、内面は鬼のように冷酷だった。
 ひとりの女が死んだことにも、何の良心の呵責もおぼえなかった。
 死んだ女は、現在の良人の前妻である。(p.282)「呪文」に「じゅもん」、最初の「梳」に「す」、「牡」に「おす」、「牝」に「めす」、「呵責」に「かしゃく」のルビ


大沼紀子『真夜中のパン屋さん 午前0時のレシピ』(ポプラ文庫2011-10)★★☆

期待しつつ前半を読み進むが、後半に失速、というか、あくまで私の好みの問題なのだが、この手の話はどうも、なのだった。

托卵娘?の高校生である希美の宿(托卵先)となったパン屋の二人と、そこにやってくる人物たちが織りなす現代版人情話みたいなものが展開していく。

話は練られているし、文章もわかりやすくまとめられているのだが(これはというような表記もあったが)、真夜中のパン屋に風変わりな登場人物たちというあたり、まんまテレビドラマにでもなりそうだ。

文庫カバー袖の作者紹介に「脚本家として活躍」とあるけど、そういうことか……。そしてまさに覗きが趣味の脚本家も登場させて強引に話を進めてしまったりもするのだけれど、彼にはこんなことを言わせている。

「それはどうかな? これは、シナリオのセオリーなんだけどさ。言葉っていうのは、あんがい嘘をつくものなんだよね」(p.190)

このあとの引用はページ順……。

 消印を確認すると、半年ほど前の日付が記されていた。つまり母は半年も前に、この女性とこのやり取りを済ませていたということだ。半年も前から、托卵先の準備をしていたということだ。これはもう托卵の集大成だなと、希美は呆れつつも感心してしまった。人間の母親としてはどうかと思うが、カッコウの母としては徹底している。娘を他人に預けるためなら、地道に計画も立てるし貯金もするし大嘘もつく。大したものだ。(p.25)

 他人の巣に産み付けられたカッコウのひなは、孤立無援だ。親鳥がひなを大切にするのは、それが自分の子供であるからなのに、その前提がない巣の中で彼らは孵化してしまうのだ。周りにいるのは騙すべき親鳥と、競争相手の邪魔なひなだけ。そんな中で、ずるいもひどいもあったもんじゃない。ただ生き抜くためだけに、カッコウたちは生きるのだ。(p.34)

 学校は雑多な品種のひなたちが、乱暴に放り込まれた大きな巣だ。その中で世間知らずのひなたちは、群れたり遊んだり学んだりしながら、ちゃんと誰かを押しのけ踏みつけ、わけもわからずさえずっている。時には同じ病に染まり、時には異端を見つけて攻撃し、そして時には、仲間のひなを執拗なほどにつついてなぶって、遊び半分で殺してしまう。
 あるいはと、希美は思いはじめてもいる。あるいはもしかしたら、世界そのものが、大きな何かの巣なのかもしれない。巣の中では、えさの取り合い、場所の取り合い。それが育つということで、育つことに疲れたり辟易したら、それで負けなのかもしれない。
 しかし、まあ大丈夫だろうと、希美は両手で頬を軽く叩き、気合いを入れる。
 長年あちこちの巣の中で、どうにかやってきたんだから。あの巣ごときに、負けるつもりはない。私はカッコウの娘なのだ。生き抜くために生きられる、カッコウなのだ。(p.43)「執拗」に「しつよう」、「辟易」に「へきえき」のルビ

「こだまの進化型はひかりで、そのまた進化型はのぞみっていうの。私はその希美だから、こだまを守る義務があるんだよ。わかる? だから、困ったことがあったら、ちゃんと私を頼りなさい。いい?」
 俺やひかりの進化型が、こんな姉ちゃんだったとは、まったく思いもよらなかったと、こだまは心底うなってしまう。進化ってすげー、なんかつえー。(p.124)

 しかし弘基と言い合いながらも、希美は内心思っていた。たぶん私は斑目を、理解したくないのだろう。もちろん彼が変態だからというのもあるが、それ以上に、彼の心を知りたくない、わかりたくない。好きという感情で走る彼が,腹立たしいのだ。
 それがなぜかも、大体のところわかっていた。おそらく恋というものを、弘基は自分のものとして捉えている。たぶん暮林もそうだろう。でも私は違う。男に恋して、自分を托卵してしまう母。私の基準はいつだって、その母の恋なのだ。私を見捨てる、恋という情熱なのだ。(p.158)

 俺の運命の人、暮林の妻をして、弘基は当然のようにそんな表現を用いる。初めて会った時からそうで、当面あるいは永遠に、その表現が変わることはないようにすら感じられる。人の妻を運命とは、乱暴なことを言う青年だと、最初こそ思ったが今は納得している。そもそも人の思いなどというものは乱暴なのだ。乱暴で横暴で、身勝手なのだ。(p.262)

 だから今の暮林は、暗い夜の闇の中、美和子が残していったものだけを守るべく暮らしている。彼女が開店させるはずだったパン屋と、彼女がかわいがっていた弘基。
 美和子の妹だと名乗り現れた希美も、その中に含まれている。どういういきさつなのかは見当もつかないが、美和子は彼女を腹違いの妹と認め、何かあったら力になると確かに手紙に書き置いていた。二十年前に死んだ美和子の父親が、十七歳の希美の父親であるわけがないが、それでも美和子が力になると言っていたのだから、自分はその意思を引き継ぐべきだと心に決めている。(p.281)


外山滋比古『日本語の作法』(新潮文庫8948、H22-1)★★☆

 かつて、大正の中頃のこと、「とてもきれいだ」というような言い方が始まって、心ある人は心を痛めたという。「とても」は、あとに否定のことばを伴うものときまっていて、「とても考えられない」のようになるのが普通であるのに、「とてもうまい」のように、肯定で結ぶのは、文法上、破格でおかしいのである。
 もともと、ことばはデモクラティックなものだから、変でも、おかしくても、みんなが使っていれば、そのうちに文法でも許容されるようになる。いまどき、「とても美しい」をおかしいと言う人はいない。もっとも、文章では、なお、そういう言い方を避ける人は少なくない。新聞の文章でも使われない。
 戦後になって、「ぜんぜん」が肯定を伴って、「ぜんぜんイカす」「ぜんぜん愉快だ」などという言い方があらわれた。「ぜんぜん」も元来、否定といっしょになって「ぜんぜん話にならない」のように用いられるもので、肯定と結びつくのは、「とても」が肯定を伴うのと同じように、破格の語法である。さすがに、これはまだ完全に許容されているとは言えない。紳士淑女は使用を慎んだ方が無難。(p.18)

言葉というのは難しい。その人の歴史に左右されるから。「ぜんぜん」の語法については頷けても、私にとって「とても」はそれこそ初耳だったりする。

語学学者でもなし、外山滋比古も言っているように文法すら後追いしてしまうことだから、とやかくいうつもりはないのだが、一度染みついた語感から逃れるのは大変なことなのだな、と改めて思う。

ただ破格な語法の「とても」が定着して「ぜんぜん」がいまだふらふらしているのは、教育やら啓蒙が大正期よりは発達しているからかもとは思う。ある種の言葉(の使われ方)が広がりだしても、現代では「そういう使い方は間違いである」と、本やテレビなどで繰り返し取り上げられて、野放図にはならないのである。

 二人で向き合って話すのは気づまりだが、何人かが車座になって語り合うのは楽しいという人が少なくない。世界に例を見ない座談会というものを考え出した菊池寛はさすがである。(p.83)

 よそからものをもらって知らん顔をしているのは少しも珍しくない。送る方もデパートなどに頼むことが少なくない。別に案内を出さないのが普通になった。かつてはこういう贈り物を“送りつける”と言って受け取らなかった人もある。いまは黙って頂戴するかわり、礼状も出さない。電話でお礼を言えばいい方である。お礼は電話では充分ではないという常識はいまの人には通じないらしい。(p.98)「頂戴」に「ちょうだい」のルビ

「“送りつける”と言って受け取らなかった人もある」も知らないことだった。やはり年配者の話はよーく聞いておかないと。

そういえば、もう15年位前になるかと思うが、品物が届いて礼状を出してすましていたら、次の日に電話がかかってきて非常識だとひどく叱られたことがあった。電話の主は義姉で、家人は小さくなっていた。

近しい間柄だから教えておかねばという気持ちが働いたとしても性急な、というのが何事にものろまな私の当時の感想だったが、今考えると翌日配送の宅配便がすでに定着していたのだから、電話でのお礼の方が理にかなっている。お叱りはごもっともだった。